年の暮れの浅草を歩く その1

12月18日は浅草寺の観音様のご縁日(納めの観音)でその前後の17日から19日の3日間が歳の市(羽子板市)が開かれる。もとはお正月の飾り物などを中心とした市であったが、江戸末期から「生まれた子が邪気をはねのけ健やかに育つ」との謂われから、女児の出産には羽子板を贈る習慣が始まって「羽子板市」となったのだそうだ。
葛飾北斎、柄井川柳、石川啄木、伊能忠敬のそれぞれの縁の寺を廻ってから浅草寺に行った。
 
 JR上野駅15番線ホーム。.宇都宮線・高崎線が発着。昔の東北本線はここで発着かな?   ふるさとの訛なつかし停車場の
  人ごみの中にそを聴きにゆく  啄木
 
浄土宗瑞亀山弘願院誓教寺。     葛飾北斎像。生誕230年を記念して建立。
 
 北斎(1760~1849)は「富嶽三十六景」などを描いた江戸後期の浮世絵師。参道のこの碑には「七十五 画狂老人卍述」などと読めるが??   都旧跡 北斎の墓。正面に「画狂老人卍墓」。側面には辞世句「ひと魂でゆく気散じや夏の原」が刻まれているそうだが見えない。
 
天台宗金剛山薬王院龍宝寺(通称:川柳寺)同じ区内にもう一つ龍宝寺(鯉寺)もある。   川柳の始祖 初代柄井川柳 (1781~1790)の墓所。肝心の川柳の墓は見落とした。
 
門前の案内板 。「川柳」は人名(号)である……」川柳の由来と柄井川柳の画像を掲げる。    「木枯や跡で芽を吹け川柳」
   柄井川柳の辞世の句と伝う。
 
 浄土真宗大谷派等光寺。
歌人・国文学者の土岐善麿(哀果)(1885~1980)の生家。
   「一念」とのみ刻む哀果の墓。哀果は啄木の親友でありその好意で啄木やその母、長女、次女の葬儀がこの寺で行われた。
 
 石川啄木。明治45年(1912)4月13日に小石川区久堅町の借家で死去。27歳。啄木一族の墓は函館立待岬。    浅草の夜のにぎはひにまぎれ入り
  まぎれ出て来しさびしき心    啄木
 
地下鉄銀座線田原町駅から一駅で浅草駅。地上に出ると、目の前にスカイツリー。     吾妻橋から下流を見る。あの橋は駒形橋。上流には言問橋。これらの上下で花火大会
 
雷門。浅草寺総門。正式には風雷神門。
門と700kgの大提灯は松下幸之助が寄進。
  門の右の風神。左側には雷神が睨んでいる。裏側には金龍、天龍の龍神像を左右に配す
 
 仲見世。日本最古の商店街。250m程の通りの左右に89店の店舗が並ぶ。    扇、手拭、かつら、だんご、まんじゅう、煎餅……種々の店の間を観光客が埋め尽くす。
 
伝法院通り。通りには地口行灯がいくつも立つが、高すぎて人々の目に触れぬようだ。    地口行灯「板きりむすめ」(舌切り娘)。地口とは江戸期流行した駄洒落の一種。
 
「たらいに見かわすかおとかお」(互いに見交わす顔と顔)。 鎮護堂(おたぬきさん)の縁日にはいくつも奉納されたという。   「浅草メンチ」幻の高座豚と牛肉をブレンド。日テレの番組で関根麻里と安達祐実らもほおばったと写真があった。 「うまかった!」
 
鎮護堂。浅草寺に住み着いた狸の乱行を鎮めるために祀る。防火、盗難予防、商売繁盛の守護神。    狸像。こんな大きな狸が目の前に現れたら、逃げる? それとも「コンチワ」とでも挨拶するかな? 
 
 「人気の泉」。おたぬきさまは「たをぬく」と言われ、役者や芸能人に信仰される。手水鉢も人気の泉と呼ばれ親しまれているんだって。水道ではなく自然水だそうだが?    「幇間塚」幇間(たいこもち)のことを「たぬき」と呼んだことから、この地に建てられた。幇間の由来と久保田万太郎の「またの名のたぬきづか春ふかきかな」の句が刻まれる。
 
「スターの広場」伝法院通りの浅草公会堂の正面に往年や現役のスターの手形とサインが286も並ぶ。一つ一つ見入っている人たち。    上段左から宇野重吉、市川右太衛門、淡谷のり子。下段は越路吹雪、川路龍子、片岡千恵蔵。ご存じ?
 
弁天堂。「関東3弁天」の1つ。築山の弁天山に建つ。ご本尊が白髪のため通称「老女弁天」と呼ばれるそうだ。   「時の鐘」5代将軍・綱吉の命により改鋳。
芭蕉の「花の雲 鐘は上野か浅草か」と詠んだ鐘。現在は毎朝6時のみ鳴らされている。 
 
くわんのんのいらか見やりつ花の雲 はせを
1796年10月12日芭蕉の103回忌に建立。
   芭蕉の句碑を撮ったつもりがこの始末、残念。句とともに線描の芭蕉像があるそうだ。
 
 添田唖蝉坊碑・知道筆塚。唖蝉坊は金色夜叉の歌、ノンキ節、ラッパ節などを歌った演歌師。その子知道も演歌師、作家などで活躍。    都々逸塚。この弁天山には扇塚、鳩塚、梵字の碑、普閑という人の歌碑などいくつも碑が建てられていた。

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