私の履き物今昔
孫が遊んだサザエさんのカルタの箱に描かれた人物の履き物を見ていて、はるか昔の履き物について、あれこれを浮かんできました。
このカルタの絵は長谷川町子、発売は赤ちゃんとママ社。そして「60年ぶりに復刻」とあり、2012年発行です。そうすると初めにカルタが作られたのは1932年、昭和の初めの頃です。サザエさん一家の愉快な一面がそれぞれのカルタに描かれていて、思わず吹き出しそうになったり、遠い昔を思い出させてくれたりと、楽しいカルタです。                                  ところで、サザエさんカルタの箱の絵を見てちょっと不思議に思いませんか? この絵はサザエさんが羽子板を持っているので、お正月なんでしょう。かつおとわかめは半纏を着ています。足袋をはいて下駄履きです。サザエさんは真冬なのに薄着でスカート、スネを丸出しで……。こんなたわいもないことをあげつらっては町子さんも不本意でしょうか。

半纏、足袋、下駄と見ていて、幼い頃の自分の履き物についてあれこれと浮かんできました。半纏は冬の唯一の防寒着です。学校へ行く時も授業中も着たままだったように思います。改まった時は、半纏に替えて羽織を着ました。小学校の卒業写真には、羽織姿が5人写っていました。母の実家へ行ったとき、祖母が羽織の紐に穴の空いた五銭を紙縒りで結んでくれた思い出は今も消えません。綿入れ半纏は現在でも私の冬の防寒着です。暖かい上に脱いだり着たりが楽ですから。

さて、子どもの頃の履き物は下駄か草履。靴はありません。学校へは下駄履きで、昇降口には「下駄箱」があり、外には「足洗い場」がありました。下駄履きで体操はできませんので、誰もが裸足ですから、校舎に入る前に足を洗う必要があったのです。普段遊びに行くときは、藁草履履き。雨降りやぬかるみでは水分を吸って重くなるし、泥がはねるやらで大変でした。学校へ草履履きで行ったかどうかは忘れましたが、校内の冬期の上履きは、みんな藁草履だったと思います。冬以外は素足だったのでしょう。
中学生の卒業写真の見える範囲では、男は下駄5人に靴2人、女は下駄1人に靴5人と、だいぶ靴が普及して来ております。勿論、私は下駄です。

昭和20年(1945)が私の靴との初めての出会いです。終戦の前だか後だか忘れましたが、当時は生活物資が逼迫していて、買いに行っても品物がありません。乏しい物資を公平に買えるようにと、食料を初めとして多くの物を買い求めるための「配給制度」が行われていました。買うための証明がないと購入できなかったのです。どういう物が「配給」だったか知りませんが、靴も配給でした。担任の先生が作った籤で、運よく私は長靴が当たったのです。貰った切符を持って店で購入するのです。うれしくてうれしくて、雨も降らないのに履き回していたことは忘れません。

高校へ通学するようになると、昔からの「伝統」とか、つまり旧制高校生の風俗の物まねでしょうが、履き物はほとんどが朴歯の高下駄。腰に汚い手ぬぐいを長くぶら下げて下駄音高く闊歩するのが、「かっこいい」と思って誰も真似をしていました。靴を履いていた者は、多分1割ほどだったでしょう。千名以上の高下駄の行列はさぞかしすごかったでしょうが、記憶は全くありません。それが普通の状況だったからでしょうか。高校も体育は勿論裸足。雪が溶け残った校庭でのラグビーの試合は、痛いやら冷たいやら。

大学へ行って、初めてズックの運動靴を履きました。通学も靴に。今の我が家には、草履も下駄もありません。霜焼けの足対応のサイズの大きな冬用の靴が鎮座するのは我が家だけでしょう。つい先日の朝ドラで、祖父役が藁を綯うシーンがありましたが、なんとたどたどしい様子でした。自分ならもう少し上手にできる筈だから、藁を買い求めて、思い出しながら草履作りをやってみようかと思っています。

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