結城に蕪村を尋ねる
  菜の花や月は東に日は西に
  ほとゝぎす平安城を筋違に
  春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな
教材などに取り上げられるなどして、与謝蕪村の名句は親しんだ人も多いのではないでしょうか。その蕪村は、若い頃、結城在住の俳句の同門に招かれ、当地の俳人と共に俳句にいそしんだそうです。結城は30年前頃勤務したところですが、ここに蕪村が暮らしていたとは、最近知りました。早速尋ねようと市の観光資料を探すと「蕪村句碑めぐりコース」約2時間という資料がありました。天気と体調などの条件がなかなか合わないので、思い立ってから半年経った先日、朝になって急に出掛けました。駅でレンタサイクルを借りようとしたら、料金先払いというので財布を探してもありません。非常用の一万円があったので差し出すと、きっちり500円だといいます。近くの店で買い物でもしようとしましたが、店はどこも10時からだといいます。思いあまって、身分証明書を担保に、やっと借りました。

結城は結城氏、水野氏の城下町だったところで、起伏は余りありませんが、街路は実に入り組んでいました。地図をプリントして持っていたし、観光案内所でも地図はくれたのですが、それを見ても分からないことが多くて、同じ処を行ったり来たりのロスタイムが重なります。車は通っても人通りが少なく、聞くにも聞けません。角角に案内表示がほしいと思いました。結局、予定したところをいくつか残してしまいました。私のスマホは「電波が微弱……」で役に立ちませんでした。

やむなく、近くの事務所や民家を訪ねて道を教えて貰いました。方向が分かりやすい処までわざわざ出てきて進路を指し示してくれた人、持参の地図に順路を書き入れて「ここは信号がないから気を付けてね」と教えてくれた人もいました。 結城家の菩提寺を尋ねると、なぜか「信濃国」の詩碑がありました。「信濃国は十州に境連なる国にして……」と歌い出す、明治33年に発表され、以後県内広く歌い続けられた歌で、戦後に長野県民歌となったそうです。その歌の碑が縁もゆかりもない結城の寺にと、誰もが不思議がるでしょう。長野生まれの私も不思議に思い庫裏を尋ねました。すると、「まあ、上がりなさい」と応接間へ。なんと、住職は長野県の北信出身だったのです。私も長野出身と名乗るや、茶菓の接待。それに林檎を二つ持ってきて「信州林檎だ、持って行きなさい」「まだあちこち回るので」と辞退しても……、結局一つだけいただき、他に寺の由緒などの資料、マッチもいただきました。僅かの志納を押しつけて、逃げるように飛び出しました。同県人、ただそれだけの縁ですが、お互いに何やら温かいものが流れた気がしました。さて、肝心の句碑ですが、「蕪村句碑めぐりコース」に記されたポイント11ヶ所の内、句碑を見たのは、わずか四ヶ所でした。私の探し方が悪かったのか、句碑などなかったのか分かりません。市の観光課に問い合わせているのですが、まだ返事はありません。岩波書店の蕪村集には、江戸から結城に蕪村が移住したのは27才の時で、同門の結城の酒造家の親友に身を寄せたそうで、10年間を結城で暮らしたとあります。その酒造家は今も存続しているのか、蕪村はどこに住んでいたのかは分かりません。これも問い合わせ中です。どんな返事をくれるのか、それによってはまた足を運びます。一番印象に残った句は、城址公園の「行く春やむらさきさむる筑波山」です。句碑の先には筑波山が木立の先に頭を覗かしていました。

結城はその名の通り「結城紬」の産地です。街には今も紬の問屋街があり、見学や体験の出来る施設が何カ所もあります。そのうちに2ヶ所を覗いてみました。60センチ程の大きな横糸を通すヒを黙々と動かしています。「10センチ織るのにどのくらいかかりますか」と尋ねると、「2,3時間でしょう」とのこと。私にはとてもそれだけの根気がありません。桑を育て、蚕を飼い、糸を取り、染め、織るとの積み重ねで結城紬もできあがるのでは、お値段も高くて当たり前なんでしょうか。

下駄、箪笥も特産品だそうですが、土産に買ったのは、結城紬の端切れ、それに冠婚葬祭などの特別な席で食べられたという珍しい「すだれ麩」などです。
ちょっと寄り道はしましたが、徒歩2時間のコースを自転車で6時間掛けて回って、しかも割愛したところもあるこの旅は、なんとなく満たされない旅でした。

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