朝づくりと夜なべと囲炉裏
さすが10月も直ぐそこになって、30℃を超える時は少なくなり、過ごしやすくなりました。いえ、今日は寒い程です。30数度の暑い時は、畑仕事はしたくありません。まして蚊の防御のための長袖長ズボンの完全武装では、とても畑になど行く気になりませんでした。ついつい畑から遠ざかってしまい、大きなお化け胡瓜になったり、育つべくある苗などは無残な姿をさらすことになってしまいます。まさに信州の方言の「ずくなし」の畑です。

それで、日の出前ぐらいの早朝に畑仕事をするようにしました。郷里の父も、よく、私が起き出す前から畑に行っていたようでした。生家は専業農家で、食料のほとんどは自家生産。家の周囲に畑があり、サツマイモをのぞいて、すべての野菜はそこで育てていました。仮に野菜を買おうとしても、八百屋もなければスーパーもありませんから、どこの家でも米、麦をはじめとする食料の多くを自分の家で作っていました。私の家では味噌、醤油までも自家生産。麹づりから始めて、家族総出で味噌団子を作ったりと。夕食後にも仕事をすることを「夜なべ」というのは、「かあさんが夜なべして……」とか「囲炉裏の端で綯わなう……」などの歌のように、どこの農家でも当たり前のことだったのでしょう。

では、朝食前に一仕事するのを何というのかなと思い、ついでの時に郷里の姉に聞いてみたら「朝づくり」というのだと教えてくれました。広辞苑にも古語辞典、言海にも見当たりませんから、信州の方言か、あるいは我が家だけで使っていたのか、それは分かりません。野菜の手入れや収穫、養蚕の桑の取り入れなども朝づりだったように思います。胡瓜、茄子、トマトの収量は、我が家の数倍に近かった気がします。素人がいわば専門家の父に並ぶ訳にいかないのが当たり前なんでしょう。野良仕事の手伝いによく駆り出されましたが、朝作りに「いじゃ」(お出でという意味の方言)と声を掛けられたことはありません。

こんなことから、子供の頃のことがあれこれとよみがえってきました。父や兄が囲炉裏の端で縄を綯ったり、草鞋や草履を編んだりする傍らで、私も見よう見真似で縄を綯ったり草履を編んだりしたこともありました。父や兄の作品とは比べようもないものでしたが、多分、今でも藁草履を作ることが出来そうです。折りがあったら挑戦してみます。また、時には、大豆を煎り、石臼を回してきな粉をひいたり、のし餅を切ったり、五平餅を炙ったり……。囲炉裏はどこの家でも欠かすことの出来ない煮炊きの場であり、暖房であり、作業の場であり、また団欒の場だったのでしょう。歌のように、囲炉裏の端で縫い物や編み物をしたり、昔話を聞いたことはありませんでしたが、いわば家の中心のような重要な場所だった気がします。囲炉裏で座る場所は、主人の場、主婦の場、子供の場と決まっていたそうですが、私の記憶にははっきりとは残っていません。囲炉裏の真ん中には自在鉤がかかっており、そこに鍋などを掛けて煮物などをしていました。囲炉裏で燃やす薪の煙で天井は煤けて真っ黒、囲炉裏の端には新品の雨傘が数本吊してあって、囲炉裏の煙で傘はより丈夫になるとか。

さて、我が家の畑は無農薬で「頑張って」いますが、結果は惨敗です。小松菜などの葉菜類は、虫のご馳走でボロボロ。人参はアゲハの幼虫に、アブラナ科の野菜は青虫がムシャクシャなどなど。コンパニオンプランツで相性のいい野菜を植えたり、有機栽培用という防除剤も使ってみましたが、効果は今一歩。結局、大きめの虫への最終兵器は人力です。作業がない日にも、毎日の朝夕に畑を巡視して、必要に応じて人力で駆除するしかありません。これは「朝づくり」とは言えないかも知れませんが、散歩も兼ねて畑に立ち寄り、収穫、虫取り、支流直しなどなど、気づいたことをちょっとして、さらに一廻りするようにしています。涼しくなってきて虫害も少なくなったようで、今のところ、大根、人参、ビーツは順調に育っています。この先には、玉葱、絹さやの植え付けや種まきが待っています。畑仕事もいつまで続けられるやら、気がかりになってきましたが……。

鉢植えの「おかわかめ」の花が咲き出しました。小さな花がびっしり。種が出来るのでしょうか。むかごも出来るそうですが……。挿し芽は直ぐ活着するし、兎に角生命力の強い植物です。「雲南百薬」といわれる健康野菜ですが、その力にあやかろうと時折食卓に上げています。

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