深川に芭蕉ゆかりの地をたずねる その1

 偶々通りかかった芭蕉の足跡に立ち寄ったのがきっかけで、その後芭蕉の足跡を尋ね始め、日光、黒羽、白河、二本松、飯坂などと繋いで辿ってきた。 こうなると、スタート地点の深川を訪ねないわけにはいかないので、足を運んでみた。
 東京へは多分何百回と出かけたことがあるが、深川というところへは一度も行ったことがない。どう行けばよいのか調べたら、上野から銀座線で三越前、そこで半蔵門線に乗り換えて清澄白河というところで降りることがわかった。

 芭蕉が深川に移り住んだ草庵は、門人から贈られた芭蕉が繁茂したので「芭蕉庵」とし、俳号も「芭蕉」と改めたそうだ。「栖を此境に移すとき、芭蕉一もとを植ふ。風土芭蕉の心にやかなひけん、数株の茎を備へ、其葉茂りかさなりて庭を狭め、萱が軒端もかくるばかりなり。人呼びて草庵の名とす。」奥の細道へ旅立つとき、近くの人に「かへす/\たのみ置て」出かけたそうだ。(芭蕉を移す詞)

 

最初に行ったのは清澄庭園。ここは初め紀伊国屋文左衛門の別邸だったとか。「潮入の回遊式築山泉水庭園」というのだそうだ。

今は都立の150円の有料公園。広さ1200坪の明治時代の代表的庭園。全国から集めた岩が各所に配置されていた。

庭園の片隅に芭蕉の句碑。
古池やかはづ飛びこむ水の音 はせを

仙台堀川に架かる海辺橋の畔に、門人杉風の別荘があった。芭蕉は庵を人に譲り、柱に「草の戸も住替る代ぞひなの家」の句を残してこの別荘に移り住んだ。

杉風の別荘「採荼庵(さいとあん)」跡。ここから奥の細道への旅を始める。「弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峯(かすか)にみえて……

霊巌寺
芭蕉とは関係ないが、清澄公園のすぐ近くにあるので立ち寄った。関東十八檀林の一つの浄土宗のお寺。ここに立ち寄ったわけは、左下。

松平定信の墓地。
寛政の改革を推し進めた老中。白河藩主の墓が霊巌寺にあった。墓域は石塀で囲まれて、鉄扉が閉ざしている。

深川江戸資料館。
霊巌寺のとなりに位置する。江戸時代の深川を想定復元した町並みや各種資料が展示されていた。火の見櫓や白壁の土蔵など

大川端に浮かぶ小舟、船宿、また路地裏の長屋など10棟ほどが復元されていた。
300円。

芭蕉句碑
古池や蛙とびこむ水の音
資料館内の一角に建てられている。

臨済宗妙心寺派瑞甕山臨川寺
開山の仏頂禅師に芭蕉が参禅した寺。
ばせを翁深川に世を遁れて、朝暮に来往ありし参禅の道場也とぞ。……
本堂内に芭蕉木像が安置されていた。

隅田川
深川三またの邊りに草庵を侘びて、遠くは士峰の雪をのぞみ、ちかくは萬里の船をうかぶ。……艫の聲波を打て腸氷る夜や涙」(寒夜の辞)

芭蕉稲荷大明神
隅田川の畔に小さな祠がある。地元の人たちが大正時代に祀ったのだという。

史跡 芭蕉庵跡
芭蕉とお稲荷さんは関係はないよね。芭蕉を神様にはできなかったからかな?

ふる池や蛙飛びこむ水の音  はせを
右は「俳聖芭蕉翁生誕参百五十年祭記念」
蛙の石像や陶器の蛙が鎮座している。芭蕉が愛好していた石造りの蛙がここで発見されたので、稲荷を祀り、旧跡に指定。

芭蕉庵の図
芭蕉は「其葉廣ふして、琴をおほふにたれり。或は半吹き折れて鳳鳥の尾をいたましめ、青扇破て風を悲しむ。……唯此陰にあそびて、風雨に破れやすきを愛するのみ。

芭蕉稲荷から堤防に上がる。下流には清洲橋が見える。下は遊歩道が整備されていた。

同じ場所から上流を見ると、かすかに新大橋が見える。荷物運搬船が勇ましい音を立てて通る。
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