福井の街中に  越前へおくのほそ道を辿る
 

 「福井は三里計なれば、夕飯したゝめて出るに、たそかれの路たど/\し。(ここ)に等栽と云古き隠士有。いづれの歳にか、江戸に来りて、予を尋。(はるか)十とせ余り也。いかに老さらぼひて有にや、(はた)死けるにやと人に(たづね)侍れば。いまだ存命して、そこ/\と教ゆ。市中ひそかに引入て、あやしの小家に、夕貌(ゆふがほ)・へちまのはえかゝりて、鶏頭。はゝ木ゞに戸ぼそかくす。……その家に二夜とまりて、名月はつるがのみなとにとたび立。…… (おくのほそ道)

三里だからと夕飯の後出かけたら夜道ははかどらない。旧知の隠士は存命かと気にしながらやっと尋ね当てた。芭蕉が泊まった等栽の宅跡は、駅から1km程の左内町の左内公園の一隅にあった。丸岡城や北ノ庄城の屋根に利用された笏谷石をとったという足羽山の麓に位置する。「左内公園」とは、幕末の志士橋本左内の墓地があるところ。
 
 芭蕉宿泊地 等栽宅跡。    蕪村筆「等栽宅図」部分。 (説明板の絵)
 
 名月の見所問ん旅寝せん 芭蕉     左内公園
  橋本左内像。福井藩士左内は、藩主松平春嶽の側近として幕政改革にも参加する。
 
 安政の大獄で刑死。享年26。東京回向院に葬られる。
ここにも左内の墓所。
   日本の将来を見据えているのかな?
 
(やうやう)白根が嶽かくれて、比那が(だけ)あらはる。あさむづの橋をわたりて、玉江の蘆は穂に出にけり。……」 (おくのほそ道)  
「橋はあさむつの橋。長柄の橋。あまびこの橋。濱名の橋。ひとつ橋。……かけはし。勢多の橋。木曽路の橋。堀江の橋。鵲の橋。ゆきあひの橋。……
」  (枕草子 52段)

西行や芭蕉が訪れた歌枕の地は、昔とはすっかりその様を変えて、街中の小さな流れとなり、僅かに碑石でところを知るばかり。せめて綺麗な水の流れる川に戻して貰いたいものだ。
 
 「清少納言が『枕草子』で橋はあさむつの橋であげ、催馬楽にも歌われて以来 藤原定家 松尾芭蕉らの歌句に詠まれた名所である……」   越に来て冨士とやいはん角原の
  文殊がだけの雪のあけぼの  西行法師
朝六や月見の旅の明けはなれ  芭蕉
 
 清少納言が橋の第一に上げた名橋も、1000年も経つとこうも立派になる。   「朝六川」も今は都市の……。
 
 
  「玉江跡。この付近一帯の小流は歌枕にとりあげられたりして、往時から知られている玉江の跡であり、この橋はその名残をつたえる玉江二の橋の名で呼ばれている。……」
 月見せよ玉江の蘆を刈らぬ先 芭蕉   (ひるねの種)  

永平寺から天龍寺へ    INDEX

inserted by FC2 system