奥の細道を辿る 須賀川から安積山へ
芭蕉が白河から須賀川へ足を運んだのは、今で言うと6月8日で、旧知の相楽等躬宅に1週間滞在した。その間、土地の俳人との交流や名所旧跡を尋ね歩いて、郡山に向かった。 市内には芭蕉記念館や「おくのほそみち遊歩道」が設けてあり、芭蕉にちなむ旧跡が幾つもある。 詩歌の盛んな土地柄のようで、市内に万葉歌碑が60基もあるという。また、俳句ポストを22カ所に設けて市民や観光客に投句を呼びかけていた。私も一句投げ込んだが、到底ここで披露などできるものではなかった。 ここは鎌倉時代以降は、二階堂氏の城下町だったが、伊達政宗に攻められ、須賀川城は落城。その二階堂家の霊を弔うために、日本三大火祭りのひとつ「松明あかし」が、私が訪問した4日後の11日にに行われるそうだ。駅にその松明が立ててあった。直径1m、高さ10mもある。武者行列を先頭に、この松明30本が夜空を焦がすそうだ。 |
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須賀川 |
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軒の栗可伸庵址 かくれがやめだゝぬ花を軒の栗 芭蕉 隠棲の俳人可伸の庵を訪う |
軒の栗可伸庵址 何代目かの栗の木が聳えていた。 等躬の屋敷はすぐ傍だったが何も残っていない。 |
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「世の人のみつけぬ花や軒の栗 はせを」 可伸庵址 地味な花に隠棲の奥ゆかしさを譬える |
おくのほそ道」碑。 此宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有。橡ひろふ太山もかくやとしづかに覚られてものに書付侍る。…… |
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「風流のはじめや奥の田うゑ唄 はせを」 十念寺 |
浄土宗 来迎山白道院十念寺 本堂 芭蕉も参詣したのだという。 |
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「終に行く道はいづくぞ花の雲」 須賀川の閨秀俳人 市川多代女 十念寺 |
まゆみ 万葉集巻2 みこも刈る信濃の真弓我が引かば うま人さびて否と言はむかも 久米禅師 |
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博物館前庭 「五月雨に 五月雨の 五月雨に? |
瀧見不動堂 本尊は不動明王。大同三年弘法大師の開基だと。 轟々と流れ降る水音は、低い滝だが大きく響く。 |
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乙字ケ瀧(石河の瀧) 阿武隈川唯一の瀧。日本の瀧100選の一。水量が多くて100mの川幅いっぱいになると乙字形になる |
曽良旅日記から 「川ハバ百二三十間も有之。瀧ハ筋かヘニ百五六十間モ可有。高さ二丈、一丈五六尺……」 |
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芭蕉と曽良の石像 随分小太りの旅姿のお二人。石像だからかな? |
「五月雨の滝降りうづむ水かさ哉 はせを」 眼を凝らしてもなかなか読み取れない。 |
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安積山 |
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芭蕉は須賀川から郡山で一泊して みちのくの浅香の沼の花かつみかつみみる人にこひやわたらん 読み人知らず 古今集 花かつみかつみる人の心さへあさかの沼に成るぞ悲しき 源信明 続後拾遺集 あさか山かげさへ見ゆる山の井のあさき心をがわ思はなくに 采女 万葉集 安積山は郡山市の日和田町に有る。在来線の日和田駅から10分ほどの奥州街道の傍らにある小さな山だ。今は安積山公園として整備され、格好の散策場所となっているようだ。 |
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遠くの山は多分磐梯山だろうな。収穫も終わった田畑で人影は殆ど見かけなかった。 |
日和田駅。今はワンマンカーが二,三両連結して走る。無人駅では運転手は改札もする。東北本線も今は立派なローカル線。のんびり旅には最適。 |
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奥州街道。慶長9年、家康の命で整備された。今も松並木が80本が残る。松食虫の被害はここにも。 |
安積山公園 碑 すぐ前は国道355号線。昔の奥州街道。 |
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安積山公園。高さは20m足らず。樹齢数百年と思われる見事な松の巨木があり、ツツジや桜も植えられている。 それに、あちこちの木陰に「ヒメシャラ」を植えた一角が点在していた。 |
「おくのほそ道」 ……等躬が宅を出て五里 |
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安積山影さえ見ゆる 山の井の 浅き心を我が思わなくに 巡察使葛城王が訪れ、王は里長の娘、春姫を見そめる。春姫は、この歌を詠み献上。王は喜び、春姫を帝の采女として献上することを条件に、貢物を三年間免除することになる。春姫には許嫁の次郎がいたが別れて都へ行く。 |
山の井の入り口 都へ行った春姫は、采女という女官となっが、次郎を忘れることができない。こっそりと安積の里へ逃げ帰ったが、次郎は既に亡くなっていた。悲しみのあまり、山の井の清水に身を投げ次郎を追ったのだという。 |
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芭蕉の小道 采女が身を投じた山の井の周囲に「安積の花かつみ」が咲いたのを、二人の愛が地下で結ばれ、この花になったのだと人々は噂をしたそうだ。 |
芭蕉が「かつみかつみ」と夕方まで尋ね歩いたという安積山のはなかつみは「ヒメシャガ」のことだそうで、遂に郡山市の花に指定されたとある。 |
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