伊賀に芭蕉の生家などを訪ねる 

芭蕉の生まれ育った伊賀上野には、芭蕉に因む処は蓑虫庵の他にもたくさんあり、限られた時間では足を運びきれないが、上野天満宮、愛染院、生家と廻って、途中で眼についた句碑を拾うことにした。
 
 「上野天満宮(菅原神社)楼門」
10月になると神輿の渡御に供奉する百数十体の「鬼行列」や9基の「だんじり」が街を練り歩く、国重要無形民俗文化財の「上野天神祭」が行われる由。
  「菅社のほとり薬師会の日に
初桜折りしもへふはよき日なり 芭蕉」
 芭蕉が29歳の時、江戸に向かう際に処女句集「貝おほひ」を奉納する。
 愛染院は松尾芭蕉の家代々の菩提寺。元禄7年(1694年)10月12日、芭蕉は旅の途中で大坂で亡くなり、門弟らにより大津の義仲寺に葬られたが、伊賀上野の門弟蓑虫庵主 服部土芳らが、形見に芭蕉の遺髪を持ち帰り、松尾家の墓所に納め、後に故郷塚が築かれた。
 
 愛染院山門。「史跡芭蕉翁故郷塚」    真言宗豊山派 愛染院偏光山願成寺本堂。
 
 家はみな杖にしら髪の墓参り 芭蕉」    「偲翁碑」 芭蕉翁弐百五拾年忌大法会記念
 
 「数ならぬ身となおもひそ玉祭り はせを」    「芭蕉翁桃青法師」(故郷塚) 
 
 故郷塚碑石。文字は読めない。    「元禄七年十月芭蕉翁浪花の客舎に逝く遺骸は粟津…
芭蕉の生まれ育った家。芭蕉は正保元年(1644)松尾与左衛門の次男として生まれ、9歳の頃、藤堂藩の侍大将藤堂新七郎家に奉公に出る。跡継ぎの良忠は蝉吟と号し、京都の北村季吟に俳諧を学んでいたことから、芭蕉も良忠と共に俳諧に励んだが、良忠の没後芭蕉は23歳の時奉公を辞す。29歳の時江戸へ出て誹諧で身を立てる。
 
 芭蕉生家。左は大通りだが裏門だって。    生家の入り口。見学はこちらから。「要頭上注意」
 
 「故里や臍のをに泣くとしのくれ」 母の墓参で帰郷したときに作った句    生家内部。当時の生活用具などが並べてある。甕、竈、井戸、草鞋……。それに土蔵も。豪農だったのかな?
 
 「釣月軒」生家の裏庭。文机と行灯が置かれた質素な部屋。芭蕉の若き日の書斎でここで『貝おほひ』を執筆。    釣月軒の奥に茂る芭蕉。昔もあったのだろうか。昔は柿、梅、琵琶、梨の木があったそうだ。
 
 無名庵の跡地。敷地の一番奥に位置する。    「無名庵跡 冬籠りまたよしそはん此はしら はせを」
 
 「芭蕉記念館」『芭蕉と近世俳人の書画』の企画展が行われていた。    上野城址の上野公園内    「俳聖殿」門。個人の寄付で建てられたって。上野公園
 
 芭蕉生誕300年を記念。芭蕉の旅姿を表現した由。   「伊賀焼芭蕉座像」             俳聖殿
 
 芭蕉句碑。城址公園と大通りを挟んだ向かい側に「だんじり会館」があり、天神祭のだんじりが公開されているそうだが、見学は割愛。一角の土産物の店で土産を探す。   「まゆはきを俤にして紅粉の花 芭蕉」
They make me recall A rady's powder
Puff- These saffron blossms.  ドナルド・キーン 訳 
 
 「きてもみよ甚べが羽織花ごろも 宗房」だんじり会館前    「月そしるへこなたへ入せ旅の宿 芭蕉」JR伊賀上野駅

伊賀は忍者の里    INDEX     

inserted by FC2 system