信州の小京都 飯田
私の故郷、といっても、実家は街中からずっと離れた農村地帯ですから、「飯田の街」についてはあまり知りませんでした。今回、帰省の折り、少しの時間を割いて「市内散歩マップ」をたよりにちょっと探訪をしてみました。 飯田は信州の小京都と称されます。それは碁盤の目のように整備された街並みや古い文化が今なお大切に伝えられているからでしょう。ただ、戦後間もなく大火のために、街の大半を消失しましたが、それをプラスにして災害に強い街として広い緑地帯や裏界線(非常用の裏通り)など工夫を重ねた街づくりになっています。 今回歩いてみて、街がとても美しいことに気づきました。緑が多く、派手な看板もないし、道路にものを置いているようなこともない、ゴミは7時前に集めてしまうようだし、街中の小さな流れにはゴミもない。 垢抜けした、洗練された街の風景と、親切に道を教えてくれる街の人々。小京都を標榜するにふさわしいと思って帰ってきました。 |
|
飯田駅 飯田駅から天竜峡行きの鈍行電車に乗る。 切石 鼎 下山村 伊那八幡 毛賀 駄科 を通って時又で降りる。 高校の下校時か6割ぐらいの席は埋まったが、いつもこうはならない、赤字路線?? |
|
松川 飯田駅を出発すると間もなく段丘を降りて、松川を渡る。この川は5Kmほど下って天竜川に入る。 この橋の二つぐらい下流の橋を朴歯の高下駄を鳴らしながら渡って、高校へ通っていた。 |
|
時又駅 駅から飯田方面を見る。 かって駅員が数人いたけれども、今は無人駅で、横の木材の集積所もなくなったし、沢山あった桜の木も見あたらない。 |
|
時又駅 高校への通学でいつも渡っていた踏切から、飯田方面に行く電車を見る。 通る電車の本数も随分少なくなっているけれど、伊那谷の大事な足には変わりはないのだろう。 |
|
飯田城本丸跡 「このあたりから長姫神社に掛けての一帯は、本丸跡にあたる。飯田藩主脇坂氏、堀氏の時代には、藩主が住まい政務をとった御殿や御奥御殿など、いくつもの建物が建っていた。」 今は美術館、柳田国男記念館と日夏記念館などとなっている。 |
|
観耕亭碑 「城主堀親義は城外に出て山水を賞することを楽としていたが、外出すると働いている農民の邪魔になるので、城中に小亭をつくって農民を眺めた。これは仁政の基とすべきだ」 といっったことが書かれているそうですが、全く読めませんでした。 |
|
桜丸御門(赤門) 「赤門は長姫城櫻丸の門で、宝暦四年四月(1754)に上棟された。本丸は町から遠く不便なので桜丸で政務をとったといわれる。入母屋造りで瓦葺、鬼瓦には堀氏の家紋「向梅」が使われている。 平面は二本の鏡柱と控柱とで構成され潜戸を設けてある。」 赤門は将軍家から娘を嫁にもらった大名にしか許されていなかったというのは?? |
|
武家屋敷の門 仲之町 黒須家の門。 この近くに武家屋敷の土塀もあるそうだが、見落とした。 仲之町は2度の大火を免れた町で、こうした建物も残ったわけ。 |
|
菱田春草生家跡 僅かな板塀に「菱田春草生誕地」の表示があるだけ。 この仲之町のあたりは、昔の武家屋敷が並んでいたのようだが。 こぎれいな通りという印象。 |
|
上海楼 通りかかってふと思い出した。 多分中学生の頃、近所のガキ大将に連れられて、生まれて初めての【中華そば】を食べたのはこの場所のこの店。 「飯田のラーメンの草分け」と散歩マップにある。間違いはなさそうだ。 |
|
飯田の町に寄す 岸田国士 飯田 美しき町 山ちかく水にのぞみ 空あかるく風にほやかなる町 飯田 静かなる町 人みな言葉やはらかに 物音ちまたにたゝず 粛然として古城のごとく丘に立つ町 りんご並木に見つけた詩碑 |
|
日夏耿之介詩碑 あはれ夢まくはしき密咒を誦してふ 邪神のやうな黄神は逝つた 「秋」のことく「幸福」のことく」「来し方」のことく 何人読めるのかな? 私は読めないので詩集で調べたら「呪文之周囲」の終聯だった。 「秋」とかいて「さわきり」と読むのだって。 これもりんご並木にあった。 飯田出身の詩人、元早大教授。 |
|
りんごなみき 昭和22年4月の大火で町の多くを消失。類焼を防ぐために設けた緑地帯に、中学生達が植えたりんご並木。飯田のシンボルともなっている。 いくつもの大きくなった実がなっていた。 |
|
夢と希望の像 その下で作業をする中学生。交代で登校前に一仕事している生徒10人ぐらい見かけた。 除草、施肥、選定、消毒……、生徒だけでなく市民も作業に協力しているとか。 人形劇とりんごと、飯田の大きな看板となっているんでしょう。 |
|
太宰春台邸跡 江戸中期の儒学者。1680年飯田に生まれる。「聖学問答」「経済碌」などの著書があるそうだが、勿論読んだことはない。 飯田駅前の中央通りに面した処にあるが、タクシー会社は「わからない」と。春台も忘れ去られてしまったんでしょうね。 |
|
海音寺潮五郎先生 赤埴源蔵旧蹟 赤垣ではなく赤埴? 海音寺潮五郎 ? 旧蹟 ? なんだか訳がわからなかった。 |
|
赤垣源蔵誕生地 赤埴源蔵旧蹟と通り一本隔てた殿町にある。 飯田藩主脇坂の家臣塩山治右衛門の次男として1669年誕生。藩主の国替えで竜野に移り、浅野家臣の赤垣氏養子となって、吉良邸に討ち入り。 ここには4歳までしかいなかった。 今は更地になっていて、この看板だけがたより。 |
|
武家屋敷 福島家 赤垣源蔵生誕地の直ぐ近く。表示がなかったがこの家らしい。 武家といっても、ピンからキリまで。さてここはどの辺りでしょうか。 |
|
日夏耿之介墓 箕瀬の柏心寺にある。 戒名はなく 日夏耿之介 妻 添子 と名を刻む |
|
菱田春草墓 「春草菱田三男治墓」と刻む。 明治7年、飯田仲ノ町に生まれる。 明治44年、38歳で歿。 東京中野大信寺に分骨する。 |
|
飯田城主堀家墓所 市内を見下ろす高台の長久寺の最上段に、門と塀に囲まれてある。 堀氏累代の墓は渋谷東江寺にあるが、6代親蔵、9代親民、11代親義の墓碑があり、妻子の墓もある由。 |
|
山口不二の墓 飯田高校校歌の一節に 「佞諛の俗を退けて 血ある女と謡はれて…」 とあったが、 不二は藩主の愛妾若山が藩政に口出しをするのを刺殺して、22歳で飯田で処刑。女性の鑑として長源寺に葬られた。 |
|
飯田駅前通り 土産物屋にサラ金の看板が眼につく。 散歩マップでは、駅前の観光案内所にレンタサイクルがあると書いてあるが、今はないんだって。 ないなら散歩マップに書かないのが当たり前だ! |
|
風越山(権現山) 飯田の街を見下ろす1130mの風越山を駅前のバス停から望む。 途中まで登ったことがあるが、いつのことだったか。 帰りのバスが間もなく来る。 サア カエロ! |