田山花袋「田舎教師」由縁の地を尋ねて
  
行田~羽生を歩く 

 田山花袋が書いた「田舎教師」の舞台となっている行田や羽生は、30km程の近さでありながら、なかなか訪ねる機会もなかったが、この度、思い立って、足を運んでみました。

行田市は「さきたま古墳群」があり、江戸時代は忍藩10万石の城下町、それから足袋の町としても知られて」います。
小説の主人公林清三のモデルとなった小林秀三一家は、熊谷から行田に引っ越してきて、城跡に近い長屋に住んでいた。中学校卒業後家計を助けるために代用教員となります。青雲の志を抱きながらも貧しさゆえに進学することもできず、小学校教師として苦悩の日々を送り、失意のうちに二十歳の若さで寂しく死んでいく主人公。

行田の町にはいると眼に着くのは、道路の両側のところどころに建てられている可愛らしい子供の銅人形。電線の地中化整備のボックスを覆い隠してその上に53体も建っていました。それぞれに名前もつけられていて、テーマは暮らしで、はねつき、綱引き、竹とんぼ……。   
 
 忍城の跡には、博物館が建てられ、三階櫓も復元されて資料館となっていました。かっての石垣や土塁なども残されています。この城は北条方に与し、豊臣方の石田三成の水攻めなどの猛攻に屈しなかった名城と聞こえます。
 城跡の多くは水城公園などとなっていて、多くに市民が釣りや散策など楽しんでいました。この公園に、田舎教師の碑があるというので、通りかかる人に何人も聞きましたが、誰も知りません。1世紀も前の小説などにはどなたも関心がないのでしょうか。
 
   博物館でもらった、「行田散策名人」という小雑誌にはきちんと取り上げているのだが、市民の多くがわからないのは悲しいものです。教育委員会ならわかるだろうと、連絡をしてもらい、やっと碑の場所がわかりました。片隅の薄暗い所ですもの、散歩の足は伸びないのでしょう。立派な石碑でした。碑石には、主人公の日記の一節が刻まれていた。

 絶望と悲哀と寂寞とに堪へうるやうな
    まことなる生活を送れ
       運命に従うものを勇者といふ<

 行田の足袋は、最盛期には全国の80%だったが、今では50%程になり、今はその技術がスリッパ生産となって居るのだそうです。
足袋産業が盛んな頃、女工がよく食べたものに、フライという食べ物があります。小麦粉を溶いたものに葱や肉や卵などの具をいれて鉄板で焼き、ソースで味付けしたものです。もっとも今では様々に工夫されて、おからを用いたゼリーフライというものもあるそうです。
行田名物というので、350円のソースを食べました。直径28cm程の大皿に、厚さ5mm程に広げられ、青のりと揚げ玉が撒かれていました。小食の私には丁度いい分量でした。
 
  主人公が下宿をし、眠っている建福寺
 主人公は、友人の父の群視学の力で、利根川にほど近い弥勒高等小学校の代用教員になります。行田からは羽生を通り越して4里。
そこで、羽生駅の直ぐ近くの建福寺(作中では成願寺)の本堂の1室を借りる。ここの住職は、花袋の義兄に当たる新体詩人山形古城。
本堂は昔のままかどうかは確かめなかったが、街中とは思えない樹木の生い茂った静かな所だった。

 ここに林清三のモデル、小林秀三が眠る。日露戦争の戦勝に日本中が大騒ぎをしている中を、21歳の若さで肺結核のために亡くなる。
墓石は「故小林秀三君之墓」と大きな自然石に刻まれ、その台座の部分に、小説にも書いてあるように辱知有志とあり、友人達が建てたことを示していた。
 
   墓の左手には、小杉放庵の手になる>田舎教師墓」そして「花袋作中の人ここに眠る」の碑石。
 入り口の脇には右の碑石が。

運命に従ふものを勇者といふ
 
田舎教師の舞台となっているのは、実家のあった行田、下宿をした羽生、勤務した小学校のあった三田ヶ谷村。人力車か馬車しか交通手段がない時代だか、貧乏人には、そういつでも利用できるものではなく、4里や5里は徒歩の圏内だったのだろう。
作品の冒頭は「四里の道は長かった」とある。行田から就職のために今泉村役場まで出かける所から始まる。
行田から学校のある弥勒というところまでは、朝四時起きでないと間に合わないので、途中の羽生の建福寺に下宿をする。  
   その建福寺の小林秀三の墓への入り口の反対側に「田舎教師巡礼句碑」と称するものがあった。その碑面に曰く。

  山門に木瓜吹きあるる羽生かな
     川端康成、片岡鉄兵 横光利一と共

川端康成が田舎教師にちなむ土地を鉄兵や利一と歩き回ったとは意外。勿論歩いては巡らなかったでしょうか。
いつのことだったのかなあ?
三田ヶ村といっても、一ところに人家がかたまっているわけではなかった。そこに一軒かしこに一軒、杉の森の陰に三四軒……。
ふと見ると平屋造りの小学校があって、門に三田ヶ谷村弥勒高等尋常小学校と書いた古びた札がかかっている。
」  
  今はこの学校はなくなって跡地はスーパーになっていた。
そこには「弥勒高等尋常小学校址」と刻まれ、

 絶望と悲哀と寂寞とに堪へ得られるやう  なまことなる生活を送れ
    運命に従ふ者を勇者といふ

という清三の日記の一節が記されていた。
 この学校の跡地の直ぐ近くのY字路の一角に松の木を背景にして「田舎教師の像」が建っている。小学校跡の碑に向いて、鳥打帽子に羽織袴、下駄履きといういでたちのブロンズ像である。  
 資料館まである「お種さん」ってだれ? 資料館は学校跡のY路路を少し行った円照寺の一角にあった。無料で公開されていて、当時の生活用品やお種さんが使っていた品々が展示されていた。お種さんについて作品に次のように記されている。
弥勒には小川屋という料理屋があって、……そこにはお種というきれいな評判の娘もいるという。
宿直室に泊まった清三は小川屋から弁当を取った。
清三はそこに立っている娘の色白の顔を見た。娘は携えてきた弁当をそこ置いて……評判な美しさというほどではないが……

清三が弥勒の学校に勤めている間、お種さんが弁当を運んでいたんだそうです。 
 
身寄りのなかったお種さんだったが、羽生市によって墓や資料館を建ててもらった。  
 
弥勒から2kmたらずの所を利根川が流れている。あたりは一面の水田地帯で、静かな農村であるが、今は弥勒の直ぐ近くには東北自動車道が貫いていた。
この当時のこのあたりの情景とのんびりした学校生活を作品は次のように描く。
   この松原跡の近くの堤防に、次の一節が記されていた。
松原遠く日は暮れて / 利根のながれのゆるやかに / ながめ淋しき村里の / ここに一年ばかりの庵 / はかなき恋も世も捨てて / 願ひもなくてただ一人 / さびしく歌ふわがうたを / あはれと聞かんすべもがな
発戸の村はずれの八幡宮に来ると、生徒はばらばらとかけ出してその裏の土手にはせのぼった。先に登ったものは、手をあげて高く叫んだ。ぞろぞろとついて登って行って手をあげているさまが、秋の晴れた日の空気をとおしてまばらな松の間から見えた。その松原からは利根川の広い流れが絵をひろげたように美しく見渡された。
 弥勒の先生たちはよく生徒を運動にここへつれて来た。生徒が砂地の上で相撲《すもう》をとったり、叢の中でばったを追ったり、汀へ行って浅瀬でぼちゃぼちゃしたりしている間を、先生たちは涼しい松原の陰で、気のおけない話をしたり、新刊の雑誌を読んだり、仰向けに草原の中に寝ころんだりした。平凡なる利根川の長い土手、その中でここ十町ばかりの間は、松原があって景色が眼覚めるばかり美しかった。ひょろ松もあれは小松もある。松の下は海辺にでも見るようなきれいな砂で、ところどころ小高い丘と丘との間には、青い草を下草《したぐさ》にした絵のような松の影があった。夏はそこに色のこいなでしこが咲いた。白い帆がそのすぐ前を通って行った。  

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