伊那谷から強風の伊良湖岬へ

所用で伊那谷を訪ね、そのついでに、かねがね訪ねたいと思っていた伊良湖岬へ足を伸ばした。折悪しく前線が太平洋上に停滞していて、曇りのち雨という予報、また風が強いとのことだったが、運良く雨は降らなかったものの、強風は予報通り、時には吹き飛ばされそうにもなった。

新宿→(中央高速バス)飯田→(飯田線)豊橋《泊》→(渥美線電車)三河田原→(渥美本線バス)福江・保美→(渥美本線バス)伊良湖岬と辿った。飯田線は特急だが豊橋まで所要時間が2時間28分、豊橋から伊良湖岬まで直通で1時間46分と案外の時間がかかった。


伊那路点描
遠くの冠雪の山は赤石山脈の仙丈ヶ岳。


伊那路点描
収穫の終わった小さな畑の向こうに飯田線の線路。


無人駅(時又駅)
タクシーが一台、ポストに公衆電話もある。飯田線は住民の大事な足。


鎮守様(桐林八幡社)
祭神は誉田別尊(応神天皇)。慶長18年飯田城主小笠原秀政より委譲と伝えられると。


柿簾。通りかかった農家の物置に伊那谷名物の干し柿が暖簾を作っていた。市田柿とは違うようだが?


あちこちで未収穫のままの柿の木が眼についた。鴉が一羽啄んでいた。小粒の柿かな?


通りかかった飯田動物園。
「入場料無料」に惹かれて入園。60種ほどの動物がおり遊園地もあった。50年以上の歴史もあり、市営とは立派。


コンドル、ワラビー、ミーアキャット、ペンギン、鹿……、子供が喜びそうな小動物が中心。
客もなし、小雨に動物もうずくまっていた。


飯坂城址(愛宕稲荷神社)
鎌倉期にこの地の地頭職であった坂西氏が築城したが後に飯田城に移転したそうだ。樹齢750年の『清秀桜』が健在。


特急ワイドビュー伊那路4号。
指定の車両は乗客5名。自由席は全部で15名ほど。ローカル線の経営はどこも大変。この列車は来年も走るのかなあ?

東に太平洋西に伊勢湾、北に三河湾にと三方を海に囲まれた渥美半島の殆どが愛知県田原市。渥美半島については、芭蕉の名句「鷹一つ……」と渡辺崋山、杉浦明平の故郷、蔬菜、電照菊の産地程度の乏しい知識しか持ち合わせがなかった。しかし、ここは農業も工業もめざましく発展を遂げているんだそうで、車窓から眼についたのは、広いキャベツ畑やビニールハウスの群れ、それに半島西部海岸の工業地帯にいくつも立ち並ぶ風力発電の大きな風車。

芭蕉が伊良湖岬に立ったのは、貞亭4年(1687)11月12日。(潮音寺の説明板には「10月」とあった)「笈の小文」に次のように記す。 

三河の國保美(ほび)という處に杜國(とこく)がしのびて有けるをとぶらはむと、まづ越人に消息して、鳴海より跡ざまに二十五里かへりて、其夜吉田に泊る。
  寒けれど二人寐る夜ぞ頼もしき
 ……田の中に細道ありて、海より吹上る風いと寒き處也。
  冬の日や馬上に氷る影法師
保美村より伊良古崎へ壹里(ばかり)も有べし。……骨山(ほねやま)と云は鷹を打處なり。南の海のはてにて、鷹のはじめて渡る所といへり。いらご鷹など歌にもよめりけりとおもへば、猶あはれなる折ふし、 
  鷹一つ見付けてうれしいらご崎


渥美線。
豊橋と田原を結ぶ。豊橋の近くは高校生などが大勢いたが、半ば進むと、一車両5人。


曹洞宗 臨江山潮音寺。
福江港に数百m、背後に川を背負い、潮の音も聞こえて来そうな大きな寺院。


坪井杜國墓碑          潮音寺
芭蕉の愛弟子。名古屋で米穀商を営む傍ら町総代をも勤める豪商で、尾張俳諧の重鎮としてその名を馳せていたが、空米売買の咎をおい、家財没収処払いとなり、この近く畑村に移住しその後保美に隠棲する。


芭蕉は貞享4年冬、「笈の小文」の途中、門弟越人を伴い、愛弟子を慰めようと杜國を尋ねた。そのとき詠みあったのが次の句。
 麦生えて能隠れ家や畑村  芭蕉
 冬をさかりに椿咲く也   越人
 昼の空蚤かむ犬の寝かへりて 野仁(杜國)


柳原白蓮歌碑          潮音寺
   於潮音寺
南無帰依佛 まかせまつりし一筋の
 心としらば救わせたまへ 白蓮 


山頭火句碑           潮音寺
あの雲がおとした雨にぬれてゐる
波音の墓のひそかにも
 昭和14年、杜国の墓参に立ち寄る。


山口誓子句碑          潮音寺
 鷹の羽を 拾ひて持てば 風集ふ


杜国公園               保美
杜國の住居跡。道路からの案内なし。


杜國句碑           杜国公園
  旧里を立去て伊良古に住侍りしころ
春ながら名古屋にも似ぬ空の色  杜国


キャベツ畑。
田原は嬬恋と一二を争う大産地とか。
見渡す限りキャベツ畑。向こうにはビニールハウス群。満開の菜の花畑も眼についた。


芭蕉翁之碑。          伊良湖
ここは芭蕉句碑公園。大きな石灰岩の上に建っている。


芭蕉翁之碑側面。    芭蕉句碑園地
「鷹ひとつ 見つけてうれし 伊良虞崎」
寛政5年(1793)5月の建立。


芭蕉句碑          芭蕉句碑園地
鷹ひとつみつけてうれしいらこ崎
 昭和58年建碑


伊良湖港
半島の突端に位置する。漁船やフェリーが何隻か。


道の駅クリスタルポルト。フェリー発着所、売店などのほかに「椰子の実博物館」もあった。


志摩半島の鳥羽とを55分で結ぶ伊勢湾フェリーが停泊中。知多半島師崎へは40分のフェリー便もある。


西行歌碑         クリスタルポルト
浪もなしいらごが崎にこぎ出でて
 われからつけるわかめかれあま
東大寺再建の勧進の途上伊勢からここに渡る。



古山(笈の小文では骨山)
芭蕉の訪れた時とほぼ同じ時だったが、鷹(サシバ)はどこにも飛んでいなかった。
山の海岸沿いに遊歩道が整備されていた。

 
漁夫歌人糟屋磯丸碑
江戸後期に活躍した伊良湖の漁師で数万首の和歌、特にまじない歌が霊顕があり「歌聖」とまで云われたそうだ。


伊良湖に流された麻績王の万葉集の歌
「うつそみの命を惜しみ浪にぬれ伊良虞の島の玉藻刈り食す」
この道の山の斜面にあるのだが見落とした


伊勢湾海上交通センター
伊良湖水道の船舶の安全を図るため情報提供と航行管制をするところで、灯台ではなかった。レーダーがくるくる回転していた。


遊歩道に沢山の歌碑があったが、どれも読み人知らず。
  はずかしないらご崎はよる波の
    音にのみたつ名をいかにせん


この日は前線の影響で雨こそ降らなかったが風が強いこと。遂にレンタサイクルを断念。遠くの島はどこ?


明神の石のしゃだんでながむれば
 おきで漁師が船をこぎます 中山小学校
児童の自筆のようだ。 作者が学校とは?


子孫の栄える歌
祝うぞよふた木がもとに生いゝでて
 育つ小松の千代の栄を  作者不詳?
磯丸のまじない歌か。この他たくさんあった。


伊良湖岬灯台
昭和4年設置。高さ15m。光りのとどく距離:約23Km。「日本の灯台50選」
小さく感じたが大役を担っているんだ。


恋路ヶ浜
灯台から太平洋に面して日出の石門まで約1km砂浜。岬に藤村の「椰子の実」碑や「日出の石門」もあるが断念する。


金子兜太句碑
  差羽帰り来て伊良湖よ夏満ちたり  兜太
古山を縫うように走るサイクリング道路の途中に海を眺めて建つ。

「伊良湖」は「いらこ」と読むのかと思ったら、「いらご」であることを知った。伊良湖は「岬」か「崎」? 地図では田原市伊良湖町で、突端は伊良湖岬。伊良湖崎は文学的表現?

芭蕉の鷹の句の表記も様々だ。どうでもいいのかもしれないが、やはり「笈の小文」に随うべきかな。真冬の寒い中をわざわざ戻り道をしてまで愛弟子を訪ね、ともに伊良湖岬に遊んだ嬉しさを鷹に託して詠んだともいわれる句。吟味に吟味を重ねて詠んだ句の、1文字だってゆるがせなどにはしないだろうな。
 鷹ひとつ見付けてうれしいらこ崎   笈の小文
 鷹ひとつ見つけてうれし伊良虞崎   芭蕉句碑園地 寛政5年建碑
 鷹ひとつみつけてうれしいらこ崎   芭蕉句碑園地 昭和58年建碑
 鷹一つ見つけてうれし伊良湖崎    市役所HP
 鷹一つ見つけてうれし伊良湖岬    観光協会HP

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