一茶のふるさとを尋ねて            04.11.17~18

 小林 一茶は宝暦13(1763年)、北国街道柏原宿の貧農の長男として生まれたが、3歳の時に生母を失い、後に迎えた継母と折り合いが悪く、江戸へ出て米屋など色々と奉公をしたのち俳諧師として身を立てるようになる。
50歳で帰郷して結婚、相続争い、子や妻の死、再婚に再々婚、火災……、文政10(1828)年に65歳で死去。

この一茶のふるさと柏原、今は長野県信濃町へ、一茶ゆかりの地やあたりの自然、それにそこの名物だという霧下蕎麦を味わいに出かけてみました。
 
軽井沢を行く新幹線の車窓から浅間山の遠望。
 「晝顔やぽつぽつと燃る石ころへ 一茶」
  「雪とけて村いっぱいの子供哉」 柏原小学校
この日の校庭には僅かな子供が遊んでいるだけ。
 
「ゆうせんとして山を見る蛙哉」銀行の支店の前に黒姫を眺める蛙の像とともに建っている。   一茶記念館前からの黒姫山(2046m)の遠望。道路は国道18号。駅から300m程の小高いところ。
 
「九輪草四五輪で仕廻けり」 
                   一茶記念館。
記念館には一茶の遺墨などの資料が展示されていた。
  一茶俤堂。別名「俳諧寺」明治時代に建てられたもので、天井に多くの俳人の筆跡などが残されている。
 
「初夢に故郷をみて涙かな」俤堂脇に句碑と一茶像が建つ。旅から旅の俳諧師の故郷の夢はどんな夢?   俤堂のちょっと後方の雑木林にある一茶の墓。この一帯は小円山公園として整備され、さぞかし一茶も本望。
 
 「おらが世やそこらの草も餅になる」
                     小円山公園 
ここには実に多くの句碑が建つ。一茶の他の人のも。
 「是がまあつひの栖か雪五尺」
                     小円山公園 
3m以上の公園最大の句碑。五尺の雪にも埋まらない。
 
 「我と来て遊べや親のない雀」  
                                                    明専寺
小円山公園から数分の距離の一茶の菩提寺。
   童謡「一茶のおじさん」詩碑  
                     記念館前
『一茶のおじさん 一茶のおじさん……」
 
 小林一茶之像。立派すぎて一茶のイメージと重なりません。路傍の石の腰掛けている姿が一茶らしい?    国指定史跡「一茶終焉の土蔵」大火の類焼に遭い、若い細君との仮住まいのうちに亡くなった。
 
 「門の木も先つゝがなし夕涼」
               一茶終焉の土蔵前
 門のわきにはどんな木があったのかな?
   「松陰に寐て喰ふ六十余州かな」
                     諏訪神社
文政時代の建碑で最も古い。碑文はつぶれて読めない。
 
「はつ蝶の夫婦連れして来たりけり」
                  信濃総合会館
  「雀の子そこのけ/\お馬が通る」
                  民家の駐車場
 信濃町全体で一茶の句碑が116基もあるそうで、一茶はこの町にとって何よりも大事な人なんだろうなあ。
ここは雪も早いのか、庭木には雪吊りがされているのもあったので、野菜の冬支度でもしているお婆さんに、雪について聞いたら、2m以上も積もることもあるとか。「雪五尺」はむしろ控え目の表現だなといったら笑われる。

旅のもう一つの目当ての「霧下蕎麦」というのは、昼夜の気温の差が激しく、夏でも冷涼で日照時間が短く、霧に覆われるところで栽培された蕎麦で、味も香りも最上とか。ネットで調べた店を尋ねあてて、暫く待って蕎麦にありついたが、遅い昼食であってか、おいしいという先入観のためか、感激したのではないが、写真を撮るのも忘れてしまった。機会があったら再度検証してみたいものだ。
 
黒姫駅から一つ先の妙高高原駅へ、そこから赤倉温泉に一泊。部屋の窓から見る暮れゆく妙高山。10月23日の中越地震の影響で客足が途絶えたとおかみが嘆いた。    翌日、妙高高原駅からタクシーで野尻湖に寄りながら黒姫へ向かう。対岸は別荘地帯の由。この季節、湖岸には人影もない。
 
 「やれうつな蠅が手をする足をする」  黒姫駅ホーム
駅正面には「蟻の道雲の峰よりつづきけん」の碑もある。
  黒姫から善光寺に参拝。善男善女の団体か各地から。
震災の影響で参詣者も少ないのかな?
 
 「春風や牛に引かれて善光寺」  善光寺北公園
「開帳に逢ふや雀も親子連れ」
   城山公園から本堂を望む。この辺は人影も少ない。
ここの東山魁夷館に寄ってその芸術をちょっと鑑賞。

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