伊豆大島の旅 ー 波浮を散策

 波浮の港見晴台への道を右にそれて下っていくと、波浮港の波止場に着く。港のおじさんに断って隅の方へ駐車する。ここしか観光客の駐車場所はないから。波浮港は「アワビ、サザエ、トコブシなどの貝類のほか、伊勢エビや海藻類も豊富な好漁場を控え、年間約4億円の漁獲高」とか。今も? ここではクサヤの加工も行われている。
 
 停泊する船は20隻ほど。ヨットが練習だろうか港内をあちこちと帆走していた。さほど広くもない波止場では、話し込んでる年輩のひとが3人がいるだけで人影もない静かな港だ。背後は食堂など10軒ほどが軒を連ねる。   「波浮の港」歌碑  作詞:野口雨情 作曲:中山晋平
  磯の鵜の鳥ゃ日暮れに帰る
  波浮の港にゃ夕焼け小焼け
雨情は来島もせず。ここは夕焼けも見えず鵜もいない。
 
 大島最古の船舶信号機。捕鯨用の大砲は座礁した船にロープを打ち込んで船員の救助に用いた由。    港から高台に登る踊子坂。石段以外には、港をぐるっと迂回して高台に登らないとたどり着けない。
 
 踊り子の里旧甚之丸邸。網元の屋敷。このあたりには10余の網元の屋敷や蔵が建ち並んでいたという。   石倉は大谷石(宇都宮)で作られ、屋敷はどこの網元の家もなまこ壁の外壁で被われて美しい町並みだった由。
 
無料公開。 1階は住居として利用され、2階は蚕を育てていた由。太い柱や梁が用いられ、随分広い建物だ。    「公園の手品師 宮川哲夫」 当地の網元の出身
  鳩が翔び立つ公園の 銀杏は手品師……。
…波浮の港は瀬戸内海を小さくしたのに似てゐて、とても可憐な港です。…大島では、こゝが港らしい港で、波浮は村と云ふよりも町と云つた感じ、家が揃つてしつかりしてゐました。町の上に港屋と云ふ宿がすぐ眼に這入ります。大島へ來て、始めて宿らしい宿で、中二階のやうな部屋では隱居らしいひとが襖の切り張りなぞをしてゐました。二階からひとめに波浮の港が見えます。商人町らしく、活氣のある町の風景で、中食に食べた野菜でも魚でも舌においしくて、遊山をする氣分のひとには樂しいところでせう。…(林芙美子 「大島行」)
 
港の高台に建って港を見下ろす木造三階建の建物は、旧館が明治、新館が大正時代に建築された旧港屋旅館。千鳥破風入母屋造りのなかなか立派な作り。今は資料館として無料で公開している。  当時は漁業関係者や観光客で常に大変な賑わいをみせ、夜ごと宴の灯が消えることが無かったそうだ。
 
「伊豆の踊子の主人公カオルのモデルになったタミとその家族は波浮の港で実際の生活を営んでいた。タミなど踊子達は波浮の雑踏を野津竹を鳴らしながら流していました。そしてお座敷がかかるたびに旅館などで踊りを披露していたのです。」(旅館の資料)

「川端康成「伊豆の踊子」  には「 一行は大島の波浮の港の人達だった。」春になると旅に出て冬になると島へ帰ると告げられた私は、大島を思い、踊子の美しい髪を眺めた、とある。
 
 港を一回りするようにしてて高台に登り、海岸沿いの「波浮散策ウォーキングコースを北上する。途中では人や車に全く遇わない。遠くに島が見えるようでもあり、勘違いでもある。一艘船が浮かんでいるのは間違いない。
   「史跡名勝 オタイの浦」ジュリアおたあは1592年秀吉の朝鮮侵攻の際捕らえられ、家康に仕えたが1612年基督教禁止令により、大島に流刑ののち新島、神津島へと移された。そのおたあに因んで名付けられる。海中に屹立する岩を「オネサマ」(近年は筆島)という。
 
 オネサマを望む海岸に見上げるばかりの十字架。自然の猛威に屈せぬオネサマをご神体としてあがめる。   「オネサマ」 高さ30m。「伊豆大島ができる以前にあった筆島火山体の中心火道が侵食に耐え残った」そうだ。

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