伊豆大島の旅  元町界隈
 

波浮から元町に帰ってきた。宿へ行く前に、界隈を探訪する。翌日も出航前の時間を利用して、また探訪をした。両日の足跡をまとめてしるす。
元町は大島の首都ならぬ首町、役場、警察署、火山博物館、それに保健所や家裁の出張所、都の支庁なども置かれている。港を挟んで南に弘法浜、北へ長根浜、和泉浜、更に島の北西端の野田浜と繋がる。
 
 木村五郎・大島農民美術資料館(藤井工房)
農民美術人形の制作と販売、農民美術品の展示、あんこ木彫教室、大島を訪れた文人墨客資料展示など、それに喫茶室もある。港から徒歩5分。入館無料
   木村五郎は1899年に神田で生まれ、日本美術院の石井鶴三に師事し、のちに院展同人となった彫刻家。大正期に起こった農民美術運動に加わり、大島、長野、京都、秋田など各地で木彫を指導し1935年に37歳で急逝。
 
 木村が昭和4年から3回来島して大島の青年達に指導した「あんこ木彫人形」堅い椿の木で大島の風俗を刻む。 (許諾を受けて右上の画像とともに資料館資料から)    「大島を詠った近・現代詩歌人作品集」
来島した文学者・芸術家は実に多い。大島の歴史や自然を大事にする島の人々の多彩な活動の成果の一つ。
大島の代名詞のような「あんこ」とは大島の女性のこととは見当がつくが、町役場の資料には次のように記している。

「あんことは、もともとは目上の女性に対する敬称で、お姉さんが訛ったものとされています(姉っこ、姉こ、・・・、あんこ)。特徴は、絣の着物に前垂れ、頭に豆絞りの手ぬぐいです。特に前垂れは前掛けとは言わず、着物を締める帯の代わりをしたためあんこ衣装には帯がありません。以前は特別な衣装ではなく、普段着または作業着として着られていました。現在では、お姉さんと言うよりもこの衣装を着た女性の通称として使用しています。」

今回の旅で出逢ったのは、「あんこ人形」だけ。シーズンオフでは生身のあんこさんには一度も出逢わえなかった。  
 
 弘法浜。天気次第で伊豆半島や利島も見えるとか。大島最大の海水プールもあり海水浴客で賑わう由。    桜庭の散るひとなりてさわやかに
 海の向山見えわたるなり  土田耕平    弘法浜
 
 土田耕平歌碑副碑。「大正四年十月に来島したアララギ派の歌人土田耕平は、大正十年四月に島を去るまで、療養生活を送るかたわら作歌生活に専念した。…この島の叙情豊かな風土と人情をこよなく愛した土田耕平に…」 昭和49年建碑、茅野市の「黒光眞石」に刻む。    「土田耕平の旧寓居」とされる古家。最初の家は「細長い四畳一間と湿っぽい土間」引っ越した次の家は「三畳と四畳半の南向で、前に雑木林を控え、遠く海を望み…」(追憶)。
もっと小さな粗末な家だったようだ。
 
島の北東端「乳ヶ崎」 
 乳)の沖べ流るる早潮の
   たぎちもしるく冬さりにけり  土田耕平
このあたりが源為朝古戦場らしい。
   「Buddy’s Bell] この鐘は「信頼の輪」をテーマに「永遠」をイメージして造られました。ダイビングでは意気のあった信頼できるパートナーをダディと呼び、…喜びや辛さを共有します。…バディへの想いを鐘の音に乗せて…。
 
 長根浜。今では「浜」は名前だけで、遊泳場にはならない。手前は直ぐ元町の港。右側は長根浜公園。公園にはハマヒルガオ、ミヤコグサ、ニワセキショウなどが、かわいらしい花を交じえあって咲いていた。    中村彝(なかむらつね)頌碑。
  水戸生まれの大正期の洋画家。大正3(1914)年来島
 「生きてまた来んあてもなき島さとを
  とはに去り行く今日の寂しさ」  
 
 「頌源八郎公碑 (為朝の碑)
希代の英雄、弓の名人と伝えられる鎮西八郎源為朝武勇を称えた記念碑。            長根浜公園
   あたかも波のように動揺きわまりない青年のこころ 限りない憧憬の島 伊豆大島 若き日の悩み この地に生まる   藤森成吉             長根浜公園
 
 浜の湯。昭和61年の噴火により湧き出した温泉を利用作った露天風呂。大人400円。要水着。貸水着もあるよと声を掛けられたが、ご辞退申し上げた。  長根浜公園    「ゴシラ像」ゴジラの故郷は大島で、三原山の噴火口から生まれたと言われている。今は三原山の火口底に眠っているから、起こさないでね。」     長根浜公園
 保元元年(1156)、崇徳上皇と後白河天皇の対立に藤原、源平両氏などが別れて加わり、天皇方についた源義朝と、その弟鎮西八郎源為朝は父為義と他の兄弟とともに上皇方についたが、天皇方の勝利で、為朝は以後強弓が引けぬよう腕に鑿を立てられ大島に流罪。島に来た為朝は近隣の島々をも支配するようになり、後白河院の討伐の院宣で「五百余騎、兵船廿余艘にて…大嶋の館へをしよせたり。……落行者共にをのをのかたみをあたへ、島の冠者為頼とて、九歳になりけるをよびよせてさしころす。これをみて、五になる男子、二になる女子をば、母いだきてうせにければ力なし。…今はおもふ事なしとて、内にいり、家のはしらをうしろにあてゝ、腹かききてぞゐ給ひける。」(古活字本保元物語)
いやいや、為朝は琉球に渡り、その子は琉球の最初の王、浦添王国の舜天王だって。為朝は岡山県井原の僧をたよって、そこで亡くなり墓もある由。義経がチンギスハンになったというように英雄はたくさんの伝説の主人公になる。
 
「鎮西八郎為朝館之跡」 大島に流された源為朝が住んでいた屋敷跡。為朝のため特に許された格式ある朱塗りの門から通称「赤門」と呼ばれる。
ここは「赤門」というホテルの傍らに建つ。
  「為朝神社(香殿神社)」への道。為朝は島代官の藤井忠重の娘「簓江(ささらえ)」を妻とし、為丸、朝稚の二人の男と女の嶋君をなす。民に耕作養蚕を教え、業を進め善を挙げて不能をあわれみ、州民は父母のように思った。
 
 為朝神社は以来八百余年、藤井家の氏神として尊崇される。この日もお参りのご婦人が供え物をして参拝していた。帰りの船便で一緒になった。   青ヶ島から為朝の家来になった鬼夜叉の墓。「額の上に、角の生出たらんごとく、両塊の瘤あり…手も足も熊のやう」で赤鬼のようであった。(曲亭馬琴「椿説弓張月」)
 
 かつては「酪農の島」といわれたが復活。島牛乳を使った「牛乳プリン」昼食の「あしたば蕎麦」を頼んだら「べっこう寿司」2貫とともにセットになっていた。おいしいよ!    地元の原料で地元で作った文字通り「土産」 、牛乳、アシタバ、くさや、焼き塩。まだあるんだろうなあ。
宿で出されたアシタバ煎餅だけは熱海産。

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