鬼怒・小貝川の下流で江戸時代へ

間宮林蔵は、江戸時代に北辺の探検をして、樺太が大陸とは海峡を挟んでいる島であることを発見し、その名により「間宮海峡」と名付けられた……、私の乏しい知識はこれだけであった。訪ねた資料館でおおよそ次のように確かめた。

林蔵は、小貝川沿いの農家に生まれる。勉学に励み、16歳の時小貝川の岡堰の工事中に幕府の普請役人に才能を認められ江戸へ出る。『蝦夷見聞記』を著した伊能忠敬の師村上島之允に師事、その従者として蝦夷地に渡り、忠敬と師弟の約を結ぶ。この年普請役雇となり、のち天文地理御用掛となり、エトロフ島を実測。

1808年カラフト探検を命じられ、西岸4分の3を調査して引き返し、翌年の2回目の探検で、海峡を発見し、更に大陸にまで渡る。

「東韃地方紀行」などを著し「北蝦夷島地図」を作成する。のち、蝦夷地内部を測量したり、伊豆諸島を検分。シーボルト事件の後「隠密として長崎に下る」と年譜にあった。意外なことに、シーボルト事件の密告者だったとか。65歳のとき江戸の屋敷で病死。


間宮林蔵の故郷


 歴史公園から10分足らず、小貝川を挟んで取手市に接する畑の真ん中に間宮林蔵記念館があった。



 農民の子として生まれrながら、その才能を認められ士分に取り立てられて、二本差の姿となった。


 資料館脇の林蔵の生家。多分中農の暮らしだったのだろう。


 生家から歩いて数分のところに間宮家の菩提寺「専称寺」の山門をくぐるとその左手に


 「間宮先生埋骨之處」と記された顕彰碑。明治37年正5位を贈位され、志賀重昂らの仲介で建立。


 顕彰碑の背後に林蔵の墓(左)と両親の墓(右)
江東区本立院には立派な墓がある。


 墓の直ぐ背後は小貝川。林蔵が見出された「岡堰」はここから2kmたらずの下流。


 通りかかった常総市の「一言主神社」。809年に大和葛城山から一言主神を迎えて祀ったのが起源とか。

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