奥の細道を辿る 黒羽から那須へ
その1 黒羽 


松尾芭蕉が奥の細道への旅に曽良を供にして出かけたのは元禄2年、318年も前のことだ。私も少しだけその足跡を辿ることにした。
芭蕉は日光街道を北上して、まず「室の八嶋」を訪ね、そこから日光、那須野を横切って黒羽、那須、白河と、名所旧跡を辿りながら旅をした。先に、「室の八嶋」「白河」の芭蕉の足跡は尋ねたので、その間を今回は歩いてみることにした。

宇都宮から矢板を通り、那須野に位置する大田原市にはいる。尋ねる黒羽は、合併で大田原市になった。

芭蕉は、黒羽町では多くの人に厚遇されて2週間滞在し、その間、那須神社、雲巌寺などを歴訪。その後、那須の殺生石に立ち寄った後、芦野の遊行の柳、陸奥の玄関口の関の明神から白河の関へ辿り、東北の旅とつないでいく。

黒羽町は、那須野の東端に位置する農村地帯で、町の中央を流れる那珂川に沿って、町並みが繋がっている。大型店はないためか、昔ながらの、下駄屋、用品屋、薬屋などといった懐かしさを覚える町並みはうれしかった。那珂川では、鮎漁の最盛期なんだろうか、多くの釣り人が川に入っていた。川の東には八溝山系の里山などが広がっている自然豊かな地域である。

黒羽町は、「芭蕉の里」として、町内の芭蕉の足跡を掘り起こして「芭蕉の館」を設けり、町内の芭蕉の句碑巡りのスタンプ台紙を配るなど、町おこしに芭蕉の力を借りていた。しかし、私のような芭蕉の足跡を辿るものは、僅かの例外を除いて、ほとんど見かけなかった。イベントなどを仕掛けないと、多くの人集めは難しいのかもしれない。

でも、芭蕉たちの旅を思いやるのには、人をほとんど見かけない静かな環境の方がふさわしい条件だったと思う。芭蕉没後313年。でもこうして町興しのために芭蕉は現役で働いている。

何カ所かもらった案内図ではどうしても行き着かないので、町の人に尋ねるが、ほとんど正確には教えてくれない。全く反対の方を教えられたこともあった。箱物だけを充実しても町興しが威力を発揮するには、地域のみんなの意識と力が兼ね備えられないと……。



那須神社を目指していくと、立派な騎馬像が目についた。屋島の源平の合戦で、扇の的を見事に射落とした那須与一宗高。この地方の豪族だったのだろう。
もっとも実在が証明されていないともいわれるが。


与一の像があるのは道の駅「那須与一の郷」その真後ろの那須神社には人影もない。与一が扇の的を射るとき、この神社に祈ったと聞いて、芭蕉は「感応殊にしきりにおぼえらる」と記す。


那須神社楼門。那須氏、次いで黒羽城主大関氏の氏神としてあがめる。この楼門や本殿などは大関氏により再建されたそうだ。


大雄寺参道。那珂川とその支流の松葉川に挟まれた尾根に、この寺や黒羽城址、芭蕉公園が並ぶ。



大雄寺は曹洞宗の禅寺。珍しく茅葺きの山門が回廊を巡らしている。



本堂、禅堂、庫裏、鐘楼、そして左の門も皆茅葺き。昔の禅寺の雰囲気を今に伝えてくれる。



大雄寺は、黒羽城主大関氏の菩提寺。
墓地の最上段に大関氏の墓があった。



参道の脇に立つ「不許葷酒入山門」こんな石碑もあまり見かけなくなった。



田や麦や中にも夏のほとゝぎす 
               大関城黒門跡



黒羽城本丸跡。西の那珂川から30mほどもあ河岸段丘上にある。



黒羽城三の丸跡に建つ「芭蕉の館」という資料館。入館料300円



馬上の芭蕉と、供の曽良像。芭蕉の館前に立つ。馬子はいないのかなあ?



那須の黒ばねという…馬を返しぬ
 かさねとは八重撫子の名成るべし





鶴鳴くや其声に芭蕉やれぬべし

               芭蕉の広場

 


黒羽の館代浄坊寺何がしの……
 夏山に下駄を拝む首途哉

               芭蕉公園
芭蕉が厚遇を受けた浄法寺図書高勝の書院浄法寺桃雪亭の跡。



山も庭も動き入るや夏座敷

               芭蕉公園
城代家老浄法寺兄弟の手厚いもてなしに、芭蕉は黒羽に2週間も滞在した。




雨はれて栗の花咲跡見かな  桃花
いづれの草に啼おつる蝉   等躬
夕食くふ賤が外面に月出て  芭蕉
秋来にけりと布たぐる也    曽良

                
                芭蕉公園


芭蕉の道入り口。大雄寺の参道登り口の少し先に、芭蕉の句碑、「芭蕉の道案内図」を見ながら、細い道を上っていくと、芭蕉公園にたどり着く。駐車場はもっと先。





行く春や鳥啼魚の目は泪
             芭蕉の道入り口



近くの「くろばね物産店」の他には店はない。
天ざるそば700円。結構な味だった。

つづき
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