平将門所縁の地を探して
平安の昔、朝廷を震撼させたひとりの反逆児平将門。彼の活動範囲は関東一円に及んでいるが、その本拠は、茨城西部lから千葉北部だったようだ。 将門所縁の地は東北から近畿にまで拡がっているが、なんと言っても茨城が圧倒的に多い。そのすべてが、史実とは言いがたいものがあるようだが、将門に対する人々の思いの程をうかがい知ることが出来よう。 県内数十カ所もあるが、その内のいくつかを探し歩いてみた。 |
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平将門公本拠豊田館跡 狭い人家の間に「将門公苑」がある。周辺は農地で、僅かな起伏があるが、昔も今と同じなら、こんな所に館を建てるのだろうか。 将門ではなく「公」の一字が付くのが、逆賊と云われようが、将門は我らの英雄であったのだろう。 将門の館はあちこちに幾つもあったようだ。 |
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将門像 将門公苑 JA支所で、住宅地図のコピーを貰って、それを頼りに、曲がりくねった細い道を辿って、やっと探し当てた将門公苑。 NHKの大河ドラマで取り上げられたのを記念して作った公苑で、巨大な説明の石碑も建っていた。 しかし、ここまでは人はなかなか訪ねては来ないだろう。 |
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将門川 常総市(元石下町)向石下 将門公苑から細い道を出て来たら、細い用水路があった。「将門川」の表示。よく見ると、マサカドではなくてShomon Riv. とある。 直ぐ近くを流れる鬼怒川に間もなく注ぎ込む。 死して川の名前まで残したのだから、よほど支配地だった人々には、崇拝されていたのだろう。 |
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仁江戸の館跡 御所神社 小さなこの神社が「御所」とは。将門の沢山の館の一つで、「桔梗の前」という愛妾を住まわせていたといわれる。 のちに、この桔梗の裏切りで将門は命を落としたので、この地の人は桔梗の模様の着物は着ないそうだ。 この神社の祭神は将門その人だそうだ。 直ぐ近くに史跡指定の大きな紫崎古墳が3つあるがさて、誰の墓なんだろうか。 |
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石井営所 坂東市(元岩井市)島広山 名実ともに将門の政治、経済、軍事の拠点として賑わっていたが、天慶3年(940)、将門は藤原秀郷と平貞盛の連合軍と合戦して破れ、営所の建造物が焼き払われた。 この周辺には重臣達の居館、郎党の住居が並び、軍勢が集まったときの宿舎や食料庫などがあったらしい。 今は農家の間に小さく石碑が建つばかり。 |
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石井の井戸 台地上の石井営所から100m程下の田に囲まれた一角にある。 『将門が王城地を求めてこの地を見回っているうちに喉が渇いて水が欲しくなった。その時、どこからか老翁が現われ、大きな石の傍らに立っていた。翁はその大石を軽々と持ち上げて大地に投げつけると、そこから清らかな水が湧き出し、将門と従兵たちは喉を潤すことができた。』 昭和初期まであったという井戸は今はない。 |
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一言神社 『将門は不思議に思い、翁を召して「あなたはどのようなおかたなのでしょうか」と尋ねると、翁はかしこまって一首の歌を詠んだ。 久方の光の末の景うつる 岩井を守る翁なりけり と唱じると姿を消してしまった。 将門はこの翁を祀るとともに、この大地に城郭を造ることに決めたのである。』と。 |
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延命寺 「延命寺は将門の石井営所の鬼門除けとして建立された。天慶3年秀郷・貞盛によって石井営所が焼かれた時、将門の持仏薬師如来像を移し隠され、世の静まるのを待って現在の低湿地に祀られた。 『島薬師』と言われている。」 石井営所から歩いて数分。台地のしたに位置し、何回か火災にあったので、山門だけが昔のまま残っている。 |
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九重の桜 説明によると。平守明が京都御所紫宸殿の桜を株分けして、将門ゆかりの地に植えたものだと伝えられる。 いつのことか分からないが、多分何代目の桜なんだろう。さびしげな八重桜が染井吉野に後れて咲くそうだ。 |
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島薬師遠景 九重の桜から島薬師。延命寺を望む。 江川という小さな川に沿ったこの辺り一帯は、昔は葭などの茂る沼地だったのだろう。これらに囲まれた台地の石井営所は防衛上の拠点として最適だったのだろう。 |
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将門妻子受難の地 深井地蔵尊 『良兼軍との小飼の渡の合戦に敗れた将門は、十日ほど後、堀越の渡に布陣するが、急に脚気を患い、軍の意気が上がらず退却。妻子を船に乗せて広河江(飯沼)の芦の間に隠し、自分は山を背にした入り江に隠れて見守ることになる。 良兼軍は、将門と妻子たちの所在を追い求めるが見つけられず、帰還の途についたた。妻子がその様子を見て船を岸に寄せようとした時、良兼軍の残り兵に発見され、承平7年8月19日、芦津江のほとりで殺されました。 地元の人は「子育地蔵」として崇拝している。 |
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将門の胴塚 延命院 「平将門は天慶三年二月十四日の夕、戦いに敗れて本陣に帰る途中で、矢に射られて三十八才の生涯を閉じた。首は京都に送られたが、後に武蔵国柴崎村に葬られた。胴体はこの延命院境内の一隅に埋められて将門山とよばれた。」 首は武蔵に? いや各地に将門の首塚がある。どれは本物か、それはどもいいことなんだろう。 |
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平将門首塚 幸手市浄誓寺 本堂の裏手に高さ3m程の塚がありその上に古びた五輪塔ある。 「天慶3年(840)の乱で、平の貞盛・藤原秀郷等の連合軍と最後の一戦を交え、討ち死にした将門の首が埋められたと伝えられており、市指定史跡となっています。」 |
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将門最期の地 国王神社 「門最後の合戦の時、三女は奥州恵日寺に逃れ、出家して如蔵尼と称しました。将門の死後33年目に郷里に戻り、この地に庵を結び、森の中から霊木を見つけ、一刀三拝して父将門の像を刻み、小祠を建てて安置し、将門大明神と号して祀られました 国王神社は、将門が宿敵平貞盛・藤原秀郷と最後の決戦を行い破れた戦場の、将門戦死の地と言われている。 |
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将門木像 国王神社 「次女如蔵尼が当地を訪ね庵を結び、その冥福を祈ったものといい、父の33回忌に当る天禄3年父の像を刻み小祠に祀ったのが神社のはじまりとなったものといわれています。その将門坐像は、制作年代は不詳。衣冠束帯姿の坐像であり、像高76センチ、茨城県文化財に指定されています」 拝殿にあった写真を撮影しました。 |
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平家の供養塔 国王神社の一隅にあった。昭和になって、多分関係する子孫が建てたものだろう。 塔の正面には、次のように刻まれていた。 桓武平氏 平家先祖代々之霊位 平将門之霊位 |
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富士見の馬場 「将門が、馬の調練をし、また軍馬、伝馬の市を開いたと言われている場所。富士の雄姿が眺められたのでこの名が付いた。近くに延喜式の長洲馬牧があって伊勢神宮に祭馬、祓馬を納めていた。 また、その頃豪族達が私牧を各地に持っていて、将門が石井営所に入ると、これら官牧、私牧を支配して駿馬を集め、この馬場で調練のほか馬市を開いたといわれている。 交通量の多い道路脇の狭いところに碑石があるだけ。何か根拠があるんだろうなあ。 |
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夜毎気合いの高い声が 高声寺 「性真という僧がこの地を通ったとき、しきりに眠気を催して、うたた寝をしていたところ、将門が夢に出てきて「自分に罪はないのだ。」と訴え、将門をざん訴するものがあったから、ついに京都から謀反人扱いにされて残念でならない、と嘆くのを夢見て、性真は哀れに思い、その霊を慰めようと寺を建てました。すると夜毎「ええ、おお」と気合をかける高い声が聞こえたので、寺名を「高声寺」と名付けたと伝えられる。」 |
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鳴き鐘 西念寺 その昔、平将門の率いる兵卒集団が、辺田村の寺の境内にあった釣鐘を持ち出して陣鐘にしました。ある日、兵卒のひとりが、この鐘をつき鳴らすと、不思議なことにその鐘が、「辺田村恋し、辺田村恋し」と泣くように響きわたり、兵卒たちは、気味悪がって士気が上がらない。将門は腹を立てて、寺へ返した。』 |
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将門の歌碑 岩井中央公民館 将門軍の兵たちが敵将の平貞盛の妻と源扶の妻たちを捕らえたという報告を受けた将門は、先の合戦で自分の妻子が捕らえられ殺されているにもかかわらず、次の和歌を添えて衣服を与たという。 よそにても風の便りに吾そ 問ふ枝離れたる花の宿りを (遠く離れていても香を運ぶ風の便りによって、枝を離れて散った花のありかを尋ね求められる。同じように人々の噂によって、散る花のように夫のものを離れて寄る辺ないあなたを案じている) |
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北向八幡 高野八幡宮 この神社は初め南向きだったが、秀郷軍などに攻め滅ぼされた将門の怨念か、一晩で北を向いてしまったと伝えられる。 この高野というところでも桔梗は植えないそうだ。 |
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后神社 大和村(現桜川市) ここに居を構えていた豪族平真樹の娘「君の御前」は豊田郡国生に住む平将門に嫁す。 平家一門の幾たびかの争乱の末、将門の叔父平良兼によって、君の御前とその子は斬殺された。 御神体は平安時代五衣垂髪の女人木像。 |
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平将門公菩提供養之碑 石下西福寺 この碑はもと御子埋(みこのめ)の台地、引手山の一廓にあったが、明治初めに当寺に移された。 碑の由緒は、建長五年、執権北条時頼は将門の祭祀常ならざるを憐み、自ら執奏勅免を得て、時の守護職千葉氏をして大法要を営ませ、蔵持に建碑した。これに歓喜した縁者伴類多数の講中が、豊田、小田(四代時知)両氏の助力を得て、建碑供養を行ったものであると云う。 |
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平将門公赦免供養之碑 石下町阿弥陀堂 この碑は以前、鬼怒河畔の御子埋め台地引手山にあったが、堤防改修でこの地に移された。 執権北条時頼が民生安定の一助としてこの国と先霊を慰めるため、執奏勅免を得て将門の供養を行わしめた。 右は平将門公赦免供養之碑 中は平将門公菩提供養之碑 左は鎮守府将軍平の良持公菩提供養之碑 |
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六所塚古墳 石下町蔵持 この鬼怒川添いの台地に構築された墳墓は八十五基が確認され、最大の規模の前方後円墳が六所塚。 一説に六所塚は将門の父良将の墳墓であり、六所の呼称は将門の父が皇統を引くものである故に、初めは御所墓と言われてたが将門の陣没と共に逆賊の汚名が高まるにつれて、六所塚と改称されたのだともいう。 東側の五所谷と称される地は将門陣没後遺骸を引取り埋葬した地であると伝承、かつては数多くの石の卒塔婆が出土している。 |
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平親王将門一族墳墓之地 この地は平将門の父鎮守府将軍平良持と兄将軍太郎将弘等の墳墓の地であったが、将門が石井で戦死すると、郎党は遺骸を馬に乗せてこの地に葬ったともいう。 ここ蔵持集落では、例年将門の命日の2月14日を祭祀日として「キッカリまつり」を行い一族の慰霊をしてきたという。 ここは鬼怒川の堤防下で、墳墓の地らしい形跡はどこにもない。どこかにあるのだろうか。 |
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香取大明神 石下町向石下 将門の父鎮守府将軍平良持は、下総開拓の府として、西数百メートルの国生に下総国庁を置くにあたり、東国創業の祖神香取明神を総社として勧請したのが始まると伝えられる。 祭神は、開拓と和平の神、経津主命、平将門、豊田四郎政幹 |