桜川 富谷観音から益子 西明寺へ 

 先日、愛用の湯飲茶碗を毀してしまったので、新しい茶碗を買いたいと思っていた。そこで秋晴れの陽気に誘われて、ちょっと寄り道をしながら焼き物の町益子へ出かけた。
 私の湯飲みは陶器であることが条件の一つだ。茶を注いだ時、肉厚の器がほどほどの温かさを手に与えてくれる。磁器ではこうはいかない。陶器でも肉厚でないと私の好みに合わない。どっしりとした重量感がある方がいい。もう一つは、芦沼石をもちいた柿釉を掛けた伝統的な渋い茶色のものがいい。それに、価格が高くても4桁の前半止まりのものが、毎日気軽に使える。
 というわけで、私の湯飲みは益子焼きか、同系統の笠間焼きということになる。
 寄り道の最初は、茨城県桜川市、といっても合併前の岩瀬町の富谷観音。筑波山と益子の真ん中ぐらいかなあ。地図に名所の印があるので一度訪ねてみようと思った。次いで、ここも名刹で知られる益子の西明寺に寄ってから買い物の段取り。


365mの富谷山の山頂近くは公園になっていて、眺望がいいがところだが、あいにくこの日は霞んでいる。加波山は見えるが、筑波山はかすかに見えるだけ。

この方向に富士山も見えるそうだ。「関東の富士見100景」になっていると記念碑があった。
高齢のご夫婦が秋の遠望を楽しんでいた。

富谷観音 山門
中腹の富谷観音は天台宗の施無得畏山宝珠院小山寺といって、天平7年聖武天皇の勅願で行基が開山したそうだ。

富谷観音 本堂
本尊の十一面観音は行基の作、不動尊は慈覚大師作、多聞天は運慶作と言う。いずれも指定文化財。木立に囲まれた閑寂な寺域だ。

富谷観音 掲額
本堂の周りには縦横1m余の額がいくつも掲げられていた。それぞれ有名な話の場面を描いているのだろうか。


富谷観音 三重塔 国指定重要文化財 
室町時代の寛正六年(1465)下妻城主多賀谷朝経が再建。屋根はこけら葺き、頂上には鉄と銅製の相輪がある

大豆畑
富谷山を下って益子に向かう山間の道を行くと、一面の大豆畑。間もなく収穫するのだろう。今頃になって青空が見えてきた。

蕎麦畑
蕎麦畑もあちこちに見えた。向こうの欅は葉をすっかり落としたが、蕎麦はまだ白い花が見える。

高城址
302mの高山の山頂近くの益子氏の居城。中世の山城で、当時の土塁や空堀が残る。南北朝時代は西明寺城とよばれ、関、大宝、真壁、伊佐、中郡とともに関東六城の一つとして活躍した由。

西明寺参道
高山を少し降った中腹、樹木が鬱蒼と茂った中に、天平9年、行基菩薩の草創という真言宗豊山派の獨鈷山普門院西明寺があった。楓の巨木が頭を覆う。

西明寺楼門
1492年建立の純唐様式三間一戸重層入母屋造茅葺。国指定重要文化財。

西明寺三重塔
1539年頃建立。屋根が板屋根となっており、塔としては日本唯一。国指定重要文化財。

西明寺本堂
屋根の形から茅葺きに覆いをかぶせたのだろう。
本堂内部の厨子は全唐様式で、一間厨子宝形造板葺きの室町初期のものだそうだ。国指定重要文化財。

西明寺鐘楼
三間四方、重層宝形造り茅葺。一層は角柱、二層は円柱で、組物は三斗出組で、古い型の鐘楼。1722年建立。梵鐘とともに県指定文化財。

西明寺閻魔堂
1714年建立の寄棟造り、茅葺き。堂内には県指定文化財の閻魔大王、善童子、悪童子、奪衣婆、地蔵尊の五体の仏像が並んでいる。

西明寺
中央が笑う閻魔様。「お地蔵様の心が笑い声だから、その化身の閻魔は笑っている」「「ははは・・」という笑い声がお地蔵さまの真言だからです」

西明寺弘法大師堂
小さな弘法大師像が並んでいる。地元の人が「弘法大師八十八ヶ所造立」を願って寄進したが、まだ途中の由。


太田水穂歌碑
 根をたえで世々につきつぐこの花の
        光りあまねき普陀落の庭
水穂はいつ足を運んだのだろう

西明寺 四角竹
桿は鈍い四稜形。中国南部原産。町天然記念物。
椎の巨木の森と高さ30mの北関東最大のコウヤマキは県指定。
人里離れた山中の鬱蒼と生い茂った森林の中に、茅葺きの堂などがひっそりと立ち並ぶここは、別世界の思いがする。

登り窯
益子は400軒ほどの窯元があり、一大窯業地。近くに陶土を産出するので幕末から日常生活用品を生産。昭和になると濱田庄司氏によって民芸品に、やがて多くの作家により芸術品にまでなる。
湯飲みを買うついでにちょっと窯元を見学。横川の峠の釜飯の釜はここで作っていた。
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