水戸をちょっと歩く 1

大学時代、学生寮で同室だった旧友が膝関節の疾病で入院したというので、他の旧友二人とともに水戸まで見舞いに出かけた。多忙な友に合わせて決めた遅い集合の時間まで間があるので、早めに出かけて水戸駅の周辺をちょっと歩いた。
 
水戸駅。上野と東北本線岩沼と結んでいた常磐線は、大震災で今は久ノ浜まで。郡山と水郡線で結ぶ。北口に出ると、黄門様と助さんと格さんが旅姿で迎えてくれた。でもその前で大音響の歌には閉口。 
 
駅から坂と階段を登ると、水戸藩初代藩主頼房が元和7年(1621)、家康を祀る神社として台地の南端、千波湖を見下ろし日光筑波の連峰までを望む景勝の地を選んで創建。後に頼房も合祀する。  
 
 銅造灯籠「奉献銅燈篭両基東照宮社前慶安四年四月一七日正三位行権中納言源頼房」と刻む。    安神車。斉昭が藩士に作らせた一人用の戦車。牛に牽かせ、銃眼から射撃する。
 
 常陸山の碑。水戸生まれの第19代の横綱常陸山の業績などを刻んであるそうだ。   常葉山時鐘。光圀が鋳造させた銅鐘。二の丸の門で時を知らせていた。
   
 雨情生誕百年記念 「その夜  野口雨情」
 五月十日銀杏坂なる水戸の権現の祭を見て
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  「大銀杏」昭和20年8月の米軍B29の空襲で、水戸市街は焦土化し、この銀杏も全身黒焦げとなるもやがて芽を吹き、戦後復興の生き証人となる。 
 
坂を登るとここは城址。城址にふさわしいよそおいの三の丸小学校。 城址にある中学校も高校も塀や門はこだわって。   本間玄調像。幕末の水戸藩医。華岡青洲に学び内外科ともに優る。斉昭の侍医、弘道館医学館教授。斉昭に命ぜられ種痘の普及にも努めた。
 
 水戸城三の丸の外堀と土塁。堀は随分深そうだ。この城には石垣は見当たらない。台地の突端に位置し、台地に繋がるここに堀を設ける。ここには1999年まで県庁があったが郊外に移転、図書館が建つ。
隣接して弘道館がある。 斉昭が開設した藩校弘道館は文武が奨励され、文館、武館、医学館、天文台など、それに現存する正庁など、「全国一の規模を誇る…総合大学のような施設」だったそうです。
 
種梅記碑。斉昭は領内に梅が少ないので、江戸屋敷の梅を集めて育苗、偕楽園や弘道館、領民の家にも植えさせた由来などを記す。     八卦堂。各面に八卦の算木を取り付ける。弘道館教育の基本を示す斉昭の撰文による弘道館記を納める。堂は戦災で消失してのちに再建。
 
 江戸時代の古井戸。   鹿島神社。祭神は武神の武甕槌神。 
 
要石歌碑、鹿島神宮の要石になぞらえ、斉昭の自選自筆。         画像にマウスで碑文   梅林。さほど広くはないが偕楽園と並ぶ梅の名所この辺りは文館の跡地だが、何も残ってはいない
 
孔子廟。孔子神位を安置。大成殿を模し総欅入母屋造。戦災消失し再建。大震災で被災。    楷樹。孔子の墓にあり聖木として植える。湯島聖堂、足利学校にも植えてある。楷書の語源とも。 
 
弘道館正門。瓦に葵紋。扉や柱に藩内抗争の銃撃戦の弾痕がある由。大震災で被災し修復中。    正庁。修復工事の模様をちょっとだけ覗くことができた。被害は各所に及んでいたようだ。
 
掲示資料の大震災の被害状況を示す写真。左は正庁の玄関、右は学生警鐘。修復工事は来年3月に完工の予定で、その後一般公開されるそうだ。  

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