長岡を歩く - 西伊豆の旅1
|
|||
「韮山反射炉を世界遺産に」 と大書した標柱。 伊豆長岡駅のホーム。 |
「韮山反射炉」国指定史跡。近代化産業遺産。 私の記憶に残っていた風景。 |
||
反射炉は炉内で炎と熱を反射させて鉄を溶かす溶鉱炉。安政元年(1854)韮山代官江川太郎左衛門英龍(担庵)が中心となり着工、安政4年に「連双2基4炉」が竣工。お台場砲台の大砲28門がつくられたそうだ。実際に稼働した反射炉が残っているのは世界でもここだけ。担庵は大砲の製造に着手しただけではなく、高島秋帆に砲術を学び、西洋流砲術の普及に努め、小五郎、象山、左内らも担庵に学ぶ。 | |||
角度を変えると3本の塔に。高さは15.7mもある。 | 炉の焚き口。燃料は常磐炭田や九州の石炭。 | ||
鋳鉄製24ポンドカノン砲。(古図をもとに復元) | 大砲の部品?? | ||
反射炉で鉄を溶解しても大砲は出来ぬ。鍛冶、細工、錐台…もあったが、今は反射炉と傍らの川だけ。 | |||
江川太郎左衛門邸は桁行13間(役24m)、梁間10間(約18m)棟高約12mの主屋を中心に、付属の書院・仏間・蔵などと敷地等が國の重要文化財指定。 | |||
重文・江川邸・史跡韮山役所跡。 | 江川邸表門。左方の枡形は農兵の訓練にも使う | ||
今は梅林となった韮山代官所跡。近くには、役人の長屋、番人小屋、厩、牢屋などもあったそうだ。 | 主屋の内部は各種の資料を展示。 左の短刀は担庵作とある。 | ||
これは何砲?。ジョン万次郎が撮影した写真もあった。 | 広い土間を見上げると複雑な柱組みが眼につく。慶長5年(1600)前後の建築と推定される由。 | ||
台所に釣り下げられた駕籠。 | 南米倉・北米倉 。 | ||
武器庫。小銃や弾丸、大砲の砲弾や火薬の原料の硝石・松ヤニなどが保管されていた。 | 「パン祖江川担庵先生邸」碑。天保12(1842)年、兵の携行食として乾パンをここで製造した。 | ||
この地は今は全くの平地だが、「往古は狩野川の流路の変遷で、大小の中州があり、その一つが蛭ヶ小島だったのだろう。頼朝は永禄元(1160)年14歳で流されてきて、治承4(1180)年、34歳で旗揚げするが、政子と結ばれる治承元(1777)年までの約17年はここで過ごしたといえよう」(説明板要約抜粋) | |||
遺跡 蛭ケ小島。 永暦元年(1160)源頼朝公配流の地。 |
梛(なぎ)の葉の縁結び。親に仲を裂かれた政子は伊豆山権現に逃げ込んで頼朝と結ばれる。梛の葉を鏡の裏に入れておくと願いが叶う??? | ||
蛭島碑記。源氏の天下統一の原点を後世に伝えるため、寛政2(1790)年建碑。文字は読めない。 | ふるさとは富士の全き良夜かな 遠藤韮城 |
||
「蛭が小島の夫婦」。頼朝と政子の像。お二人は何を見ているのかと思ったら | 二人の 視線の先は、富士山。当時は電線も建物もなく、富士を眺めつつ、何を考えていたのか? | ||
韮山城址。北条早雲以後伊豆支配の中心地、秀吉の小田原征伐の際落城。江戸初期に廃城。 | 城池の眺望。左は韮山城址。右方には江川邸にほど近い。 | ||
この日も暑かった。サイクリングコースに従っていたら、韮山城址脇の厳しい勾配の峠道。確かに近い道だが、平地を廻る道もあったとあとで気がついた。「ここは坂道」の一言の配慮がほしいものだ。 |