流山・松戸へ一茶を尋ねる1 流山

小林一茶が若い頃、信州柏原村から出てきて、働いていたともいわれる流山と松戸へ、ゆかりの地をたずねてみた。流山や松戸は一茶の第二の故郷だったろうとも言われ、俳人として名をなしてからも頻繁に来訪していたという。流山の秋元三左衛門(双樹)は味醂醸造業の傍ら俳句をたしなみ、一茶と親交を結んでいたという。そんな流山からたびをはじめた。
 
 武蔵野線三郷から、埼玉と千葉の県境の江戸川を越えて流山市へ。この日の空はご覧の通り。   江戸川にほど近い一茶寄寓の地「一茶双樹記念館」。入館料100円。70歳以上は無料でした。
記念館に一歩入ると、かわいらしい一茶と太った「痩せ蛙」がお出迎え。 江戸時代から続くみりん「天晴」1リットル750円。
「株式会社秋元」で購入を。
 
双樹亭。安政四年に建築された秋元家の「新座敷」を解体修理。江戸末期の商家建築の様式を伝える「文化史上極めて貴重な遺構」だそうです。細かなところにまで意匠を凝らした贅沢な建物かなあ。
ささやかな展示室には関係資料が展示されていたが、迂闊にも二階の広い展示室を見落とした。
 
 夕月や流残りのきりぎりす 一茶  庭園に。    一茶庵。ここは茶房。
 
真言宗豊山派光明院。本堂正面の右に「一茶ゆかりの寺」左に「新撰組隊士分宿の寺」と掲げる。  
 
   長月朔日
豆引きや跡は月夜に任す也 双樹
烟らぬ家もうそ寒くして     一茶 
  秋元双樹夫妻の墓…双樹は一茶を庇護し、一茶も双樹の徳を慕ってしばしば来遊し同家を宿にして。…来遊総計54回以上、140泊前後に(説明板)
 
 庭履掃てそして昼寝と時鳥     双樹
石は一茶出身の信濃町鳥居川産。双樹と一茶の縁で信濃町と流山市は平成9年に姉妹都市に。
   松毬のからからと秋気澄みにけり 松本翆影
流山出身。内藤鳴雪に師事。「新緑」「ましろ」などを経て、昭和14年には主宰誌「みどり」を発刊。
 
 赤城神社。赤城山の麓を削り流れきて標高15mの赤城山となったとも。流山の地名の起こりとか。    越後節蔵に聞えて秋の雨 一茶。
下に昭和45年文化の日の17句の献詠が並ぶ。
慶応4年2月1日、新選組は下総鎮撫隊として2百数十名が流山に転陣。醸造家長岡三郎兵衛方を本陣とし、光明院などに分宿。3日政府軍が急襲銃撃戦となるが本陣が包囲され、大久保大和(近藤勇の改名)が知られていないので徳川家鎮撫隊を主張して説得するために赴いたが、板橋宿に連行され近藤であることが知れて処刑される。残余の新選組は会津を経て函館で降伏した。(説明板の要約抜粋)  
 
老松古椎に往時をしのんでここに遺跡の碑を→     近藤勇陣屋跡。
 
流山土産。先ずは味醂。近藤勇が飲んだか知らぬが芋焼酎。和菓子「一茶の宿」てっぽう漬……  
 
 焔魔堂。金子市之丞・三千歳」の墓。市之丞は流山の醸造家に生まれるが、身を崩して盗賊となり、やがて捕縛され獄門に。講談「天保六花撰」歌舞伎「天衣粉上野初花」に登場。花魁三千歳は愛人。  
 
すぐ近くの江戸川に行くと、見渡す限り菜の花盛り。堤防の内側も外側も。  すっかり春の景色だ。
  ここから隣接の松戸市へ向かう。流鉄流山線で3駅でも行けるが、そこから歩くのを敬遠して直接タクシーで松戸の本土寺へ向かった。

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