日光 竜頭の瀧・裏見の滝・憾満ヶ淵
 

 日光が紅葉の季節を迎えたとともに、東照宮の千人武者行列があるという。高低差のある日光で竜頭の瀧が紅葉の最盛期になったというので、竜頭と武者行列にしぼって出かけてみた。
 芭蕉が、室の八嶋から鹿沼を通って例幣使街道から日光へ行ったのは、「卯月朔日、御山に参詣す」とあり、太陽暦の5月19日だった。「あらたうと青葉若葉の日の光」と詠んだのだが、紅葉季節ならどう詠んだのだろう。

 日光線は乗客の6割方が白人のように見える。外国のお客様なんだろう。そのほか中国や韓国の方もおいでになるかもしれないけれど、容貌だけでは私には区別がつかない。日光が世界遺産に登録されて、多くの外国のお客様を迎えるようになったとすれば結構な話だ。

 宇都宮から日光線を進んでいくと、左方に例幣使街道の杉並木が見えてくる。やがて、右には日光街道の杉並木が続き、今市で合流する。 日光駅。明治23年開業の駅舎は、JR東日本管内ではもっとも古い木造建築。帝国ホテルを設計したライトの設計とか。
バスに乗り換えていろは坂を登る。雲が覆って、雨が降ってきそう。 中禅寺湖にたどり着く。雲が動いていて何とか晴れ間が見えるかなあ。
祈りが届いたように、青空が広がってきた。日頃の心がけかな? 竜頭の瀧は、紅葉狩りの観光客で押し合いへし合い。
湯ノ湖から流れ出た湯川が、中禅寺湖に注ぐ。
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奥日光三名瀑のひとつというと、あとは華厳の滝と霧降の滝かな?
男体山の噴火による溶岩の上を210メートルにわたって流れ落ちている。幅はそんなにない。 2枝に分かれ滝壺に落ちる様子が、竜の頭と顔に見えるのが命名の由来。どこが?
 周りの木々もいい色になってきた、 中禅寺湖湖畔。標高1269m。

 華厳の滝を見てきたのであろう外国人が、中宮祠から大勢バスに乗り込んできた。8割か9割が外国の方(白人)で、僅かの日本人は小さくなっている。
 これからいろは坂を下っていく。ふと気がついたが、猿の姿が全く見えない。そういえば中宮祠の土産店でも商品にネットなどを掛けている様子もなかった。山には木の実などたくさんあって、観光客の持っている袋などを奪わなくてもいいのだろうか。
 
 芭蕉は、東照宮のほか、含満ヶ淵と裏見の滝に立ち寄っている。私も立ち寄ろうと、バス停から2.5kmの坂道を裏見の滝へ登っていった。長い長い2.5kmに感じた。本当に2.5km? もっと遠くはない??
 この瀧は、大谷川の支流の安良沢川上流にかかる滝で、高さ45メ−トルで、幅は2mとか。
 芭蕉は滝の裏に入ったそうだが、崩落したためか、滝の裏側には立ち入ることはできないようだ。 
 路傍にさいていたが、名を知らない。  「廿餘丁山を登つて瀧有」 (以下奥の細道)
 「岩洞の頂より飛流して百尺」  「千岩の碧潭に落たり」
 「岩窟に身をひそめ入りて滝の裏よりみれば、うらみの瀧と申傳え侍る也」  「暫時(しばらく)は瀧に籠もるや()(はじめ)  芭蕉」

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 芭蕉が日光で訪れたのは、東照宮と裏見の滝、それに「含満が滝」の三カ所のようだ。↑の時の旅では時間がなくて、「含満が滝」は断念した。
 断念したままではどうもすっきりとしないので、月が変わって11月1日、芭蕉と同じように小山から壬生街道を進み、鹿沼で例幣使街道へ、今市で日光街道に合流する道を辿った。
 ちょうど東照宮の近辺は満山紅葉の最盛期で、この景色を芭蕉が見たなら、どんな句を残したのだろう。 紅葉のその先には、小さな滝が何本も流れ落ちている。それぞれ名があるのだろうが、地図には表記がなかった。
 含満が淵に望む慈雲寺山門。この先の四阿屋の下を「含満が淵」。寺を開いた晃海大僧正が命名したよし。  流れる音が不動明王の真言を唱えるように響くので、真言の「カンマン」をとって「憾満(かんまん)ヶ淵」というのが本来名称だそうだ。
 何体山から噴出した溶岩でできた奇勝。
 古くから不動明王が現れる霊場だと言われている。
 紅葉の真っ盛りで、多くの人が訪ねてきていたが、話声が全く耳に届かなかったのは川音のためだけではなさそうな気がした。
 「あらたふと青葉若葉の日の光り」
含満が淵から少し上流の右岸の大日堂跡。

お地蔵様と並んで密やかに建っていた。
 「芭蕉翁おくの細道うら見たきの吟
  しばらくは瀧にこもるや夏の初」
                 小杉放庵書
安良沢小学校校舎前。 創立記念に建碑。
 

日光千人武者行列

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