栗と北斎と一茶と花のまち 小布施 

千曲川河畔の長野県で最も小さな町小布施は、先の大合併騒動に巻き込まれず、小さいながらも「栗と北斎と花のまち」を掲げて町おこしに取り組んでいる。そんな小布施を少しだけ訪ねてみた。
「小布施栗の起源は室町時代、雁田山の城主としてこの地にやって来た武将・荻野常倫が、旧領であった丹波の栗の苗木を取り寄せて植林したのが始まり。」とのこと、ここの気候風土が栗の栽培にあったのだろう。
 
 長野から長野電鉄長野線で小布施に向かう。途中千曲川を渡った。「千曲川」何となく響きがいいなあ。   車窓からは、一面の林檎畑。ここはもう収穫も終わったようで林檎の姿は見えない。
 
 小布施駅。    「いがごてら都へ出たり丹波栗 一茶」 駅ホーム
 
小布施駅前の栗の木の下にも一茶の句碑が建っていた。→  「拾れぬ栗の見事よ大きさよ 一茶」   小布施は幕府の直轄領で、栗を将軍に上納するまで栗を拾うことは許されなかったそうだ。
 
 葛飾北斎「踊り」 駅前歩道。楽しそうなこと!     高井鴻山記念館。大きな幟、入り口には「鴻山まつり」
 高井鴻山は15歳から16年間、京都や江戸への遊学で多彩な学問や芸術を修め、自由で幅広い人脈を築いた。豪農商の当主となってからも学問思想に情熱を傾け、佐久間象山など思想や文人交流を深め、葛飾北斎など多くの文人墨客を招き、また饑饉には窮民を救い、私塾を開いて教育活動に専念した。(記念館しおり要約抜粋)
 
 高井鴻山座像。記念館の入り口に端座していた。
(文化3(1806)~明治12(1883)年。「陽明学の知行合一の精神で国利民福の信条を貫いた人」(記念館しおり)
   書斎兼サロン、北斎のためのアトリエ、書斎、屋台庫、穀蔵などの建物にたくさんの書画をはじめとする資料が展示されていた。
 
 書斎内部。    一弦琴。試弾をしたが、難しい。龍馬も弾いたとか。
 
 多くの志士が訪ねて国事を論じたが、身の安全のため、押し入れに見せた本宅への逃げ道があった。   ここも抜け穴。盆栽を置く場所と見せかけ、書庫の下を通って本宅などに逃げる。国事を論ずるのは命がけ。 
 
 信州おぶせ緑のかけ橋まつり 秋の味覚祭」の当日。会場の道路などで野菜・果物や料理の販売、骨董市が開かれていて大賑わい。レンタサイクルは邪魔物だった。   北斎館。 北斎生誕250年記念「富士と桜」展で肉筆、版画や祭屋台天井絵などの展示、またスライドなどの映像展示も。北斎の画業は随分幅が広いと初めて知る。
 
 「梅松寺本堂」一茶は文化10年(1813)以降頻繁に小布施を訪ね梅松寺住職の知洞らと度々句会などを催す。   「真丸に芝青ませて夕涼 一茶」 梅松寺門前
 
 
 「侍に蠅を追する御馬哉 一茶」  梅松寺本堂前    「淡雪や片仮名形(な)りの小菜畑 知洞」(一茶真筆)
     

つづき     INDEX

inserted by FC2 system