小栗判官の里を行

説経節、浄瑠璃、歌舞伎など様々な形で演じられた「小栗判官と照手姫」の物語の主人公とされた小栗判官は、茨城県筑西市小栗の地を根拠としていたという。小栗氏は平安末期からこの地を支配しており、物語の舞台は戦国時代、最後の城主の15代助重。小栗氏ゆかりの地をちょっと歩いてみた。小栗の北は小貝川を挟んで真岡市根古屋。根古屋って山城の城下町!?
 
 JR水戸線の小さな「新治駅」で下車。   名所案内には「小栗」の文字はない。名所ではないんだ。
 
車でうっすらと浮かぶ筑波山を望みながら、広い水田地帯を大陽寺へ向かう。    助重が先祖の供養のため建立した天照山大陽寺は既に廃寺となり墓地だけが残っている。
 
14代小栗城主小栗満重供養塔。子の15代城主助重が建立。    小栗十勇士供養塔。
傍らの説明板には「(伝)小栗十四代城主・小栗孫次郎平満重公と家臣の供養塔」と題して、小栗氏の歴史の概要を小栗氏の系図も掲げて説明している。説明板に助重は「世上有名な小栗判官と称された武将」とある。(画像にマウス:説明板部分拡大) 
 
内外大神宮。集落の最奥の山裾に長い参道が延びていた。   内外大神宮拝殿。 この地になぜ神宮が?
小栗の地は伊勢神宮領の「御厨」で、小栗内外大神宮は平安初期の創建として伝えられる。地頭が小栗氏であったという。 拝殿の背後に、国指定重文の内宮、外宮が並んでいた。 三間社神明造。屋根は銅板仮葺。本来は茅葺きということか。
 
外宮御門。背後の本殿に豊受大神を祀る。屋根に鰹木が。   内宮御門。本殿には天照大神を祀る。
 
国重文「御遷殿」覆屋の中に茅葺きの小さなお社。   一間社流造。1547年建立。ここも20年ごとに建て替え??
 
大神宮の背後に「小栗城跡」その先が道??   本丸への道は「壕」の底を蜘蛛の巣を払いながら登る。 
 小栗城は関東平野へ北から延びた丘陵の先端の小山に位置し、城の直下を蛇行する小貝川が半周するように流れる。標高70m余。麓からの標高差25m程。斜面には数段の郭が取り巻く形で防備に備えていたようだ。
小栗城は桓武天皇の皇孫平上総介高望から七代の孫平重家が久寿2(1155)にこの地方の伊勢皇大神宮の御厨の保司となり築城し小栗氏と称し、子孫15代まで300年余この地を統治。応永30(1423)年、14代満重の時、関東公方足利持氏との合戦で落城。嘉吉(1441)年の嘉吉の乱の戦功により15代助重が復城。15年後の康正元年(1455)古河公方足利成氏に攻められ落城する。 
 
傍らに「登城者名簿」。説明書があったそうだが今はない。 所々に標柱で本丸への道を案内してくれるが、足元は心許ない。 
 
山の最高地点の本丸跡。標高70m。広さは24a程かな?   本丸の外縁には土塁とおぼしき処もあった。
 
 本丸へ登る道。どの道でも大変のようだ。   小栗城址遠望。二の丸の鉄塔が聳える。その下に三の丸も。 
下城して城の下の公園で一休み。ここから2km程の一本道を集落の中心地へ向かう。だが途中で何回も道を尋ねる始末。 
 
小栗には寺のように門と塀と庭と屋根を備えた住宅が多い。裕福の土地なんだろう。こちらは小栗邸。小栗氏のゆかりの??   藤長寺。助重が建立した大陽寺が廃寺となった際、満重の位牌や守り本尊などが当寺に保管されたとか。住職お留守? 
 
時宗一向寺派(現在は浄土宗)一向寺。 藤長寺の隣に   標柱に「15代城主小栗助重公(判官)之碑」とある。
 
中央の碑面に「小栗判官代平助重」。右に照手姫、左端に鬼鹿毛の墓とも供養碑とも。    照手姫の碑。戒名と年号が刻まれているそうだが読み取れない。なにやら花のような模様が見えるが、梵字?
 
 馬頭観世音、それに年号らしき文字が。    小栗判官伝説発祥地の碑。
右上の碑には「一向寺などに拠る時宗の沙弥や巫女が小栗と郎党の霊の慰撫のため語り始める。波瀾万丈の助重の生涯は説話の素材となって、各地へ広がっていった。……」(概要) 助重などの碑は史実とは合わないそうだ(「小栗氏と小栗伝説」)が。
ここでは毎年12月の第1日曜日に「小栗判官まつり」が開かれる由。小栗判官と照手姫の話は最近でも歌舞伎や宝塚、漫画など様々な形で取り上げられているそうだ。判官と照手姫ゆかりの地は藤沢遊行寺を初め、茨城町、市川、横浜、相模原、大垣、熊野……にあり、それぞれ各地なりに語り継がれているとか。折りがあればそれらの地を訪ねたいが。   

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