盛岡市街に啄木の足跡を辿る
ー秘湯と啄木とおくのほそ道とー
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盛岡駅舎の正面に啄木の手蹟で「もりおか」と大書。 盛岡での啄木の存在がいかに大きいことか。 |
ふるさとの山に向かひて 言ふことなし ふるさのの山はありがたきかな 啄木 駅東口 |
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じゃじゃ麺、わんこそばと並んで盛岡三大麺の「冷麺」で昼食。小麦粉と片栗粉で作るコシのある半透明の麺。味は? | 盛岡の市街を貫通する北上川を、その名も嬉しい「開運橋」から望む。 | ||
石川啄木新婚の家。両親と妹と共に、この家に3週間だけ住んで転居した。江戸末期の武家屋敷で、市の有形文化財。茅葺きに屋根を掛けてある。 | 啄木は仙台で遊んでいて、挙式の日に帰らず、「花婿のいない結婚式」をこの家で級友の媒酌で挙げたという。 啄木時に20歳。 |
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啄木夫妻の四畳半。この左は主なき結婚式を挙げた処。 | 啄木たちの玄関。この左が啄木夫妻の四畳半。 | ||
妻節子の愛用の琴。 「沈の香のそよぎに/わが魂はあくがれぬ。/二人居の初夏や、/はしけやし、黒髪よ。/琴を弾け、沈の香に。 『琴を弾け』 |
ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな 婚約時代の節子と啄木の写真。 |
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学校の図書庫の裏の秋の草 黄なる花咲きし 今も名知らず 啄木 盛岡中学校跡(岩手医大前)に建つ |
街を貫流する中津川は、間もなく北上川に流れ込む。 |
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天満宮。盛岡中から1.5km程当方の小高い丘の上にある。ここは啄木お気に入りの散策と読書の場所で、啄木の中学時代は天神山と呼ばれていたとか。 | 天満宮拝殿。 盛岡天満宮は南部氏がまだ三戸に居城を構えていた頃から祀られていたらしく、その後、盛岡城内、現八幡宮境内などを経て、現在の地に遷座された。 | ||
啄木も天満宮から市街越しに岩手山を望んだのだろう。 | 牡丹桜が満開。この桜は啄木もご存じない! | ||
「松の風夜畫ひびきぬ 人訪はぬ山の祠の 石馬の耳に 啄木」 |
「夏木立中の社の石馬も 汗する日なり 君をゆめみん 啄木」 |
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「苑古き 木の間に立てる石馬の 背を我が肩の月の影かな 啄木」 |
「病のごと 思郷のこころ湧く日なり 目にあおぞらの煙かなしも 啄木」 |
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銭湧石。昔割れ目から多くの古銭が掘り出された。今は割れ目に梅が自生して「石割梅」というそうだ。 | 「病のごと 思郷のこころ湧く日なり 目にあおぞらの煙かなしも 啄木」 |
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岩手山 秋はふもとの三方の 野に満つる蟲を何と聴くらむ 啄木像 |
はるかに生まれ故郷の日戸村(現・盛岡市)を望んでいるのだって。 | ||
盛岡市街を眼下に見下ろし、はるかに霞む岩手山を望む。 岩手山は標高2038mの複式火山、日本百名山の一つ。岩手県の最高峰。 ここにも桜もまた咲いていた。 |
汽車の窓 はるかに北に故郷の 山見えくれば襟を正すも 石川啄木 光り淡く こほろぎ啼きし夕より 秋の入り来とこの胸抱きぬ 石川節子 |
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「啄木望郷の丘」から少し下がったところから、木立の中の散歩道に、啄木の歌碑がいくつもあるが、少しだけを。 | それとなく 郷里のことなど語り出でて 秋の夜に焼く餅のにほひかな 啄木 |
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何となく 今年はよい事あるらしく 元日の朝晴れて風なし 啄木 |
ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみのなかに そを聴きに行く 啄木 |
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「啄木・牧水友情の歌碑」 牧水は啄木を看取る 城あとの古石垣にゐもたれて 聞くともしもなき 瀬の遠音かな 若山牧水 教室の窓より遁げて ただ一人 かの城址に寝に行きしかな 石川啄木 中津川河畔 |
その昔 中学校の柾屋根に 我が投げし鞠 いかになりけん 啄木が学んだ盛岡市立高等小学校(現・盛岡市立下橋中学校)正門内) 親交が厚かった金田一京助の書 |
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北上川。ちょっと上流では中津川が流れ込み、この先のちょっと下流では雫石川も合流する。啄木父子の歌碑は、この中津川河畔にある。 |
中津川や 月の河鹿の啼く夜なり 涼風追ひぬ夢見る人と 啄木 中津川 流れ落合ふ北上の 早瀬を渡る夕霞かな 一禎(啄木の父) |
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二の丸の石垣。盛岡城は東北随一の総石垣造り。石垣の美しい城址として知られており、シーズンにはライトアップも | 「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸われし十五の心 啄木」 書は金田一京助 |
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啄木の歌碑二の丸から本丸への橋を見る。この城址公園には、盛岡が生んだ新渡戸稲造や宮沢賢治の文学碑もあるのだが……。 | 「北風に立つ少年啄木像」 丸藤菓子店前 新しき明日の来るを信ずといふ 自分の言葉に 嘘はなけれど― 啄木 |