両国界隈を歩く1 要津寺から回向院へ

よく晴れ上がった日曜日、この季節初めての木枯らしが吹くなかを、両国界隈を歩いてきた。このあたりは、国技館、隅田川の花火、そして多くの時代小説の舞台でもあり、耳慣れたところだが、今まで歩いたことがない。
 
臨済宗妙心寺派東光山要津寺。蕉門十哲の服部嵐雪を三世雪中庵としてついだ大島蓼太が門前に芭蕉庵を再興、以来松尾芭蕉一門ゆかりの地となる。    芭蕉句碑。「ふる池や蛙飛び込む水の音」
安永2年(1773)大島蓼太が建立
芭蕉70回忌を記念して宝暦13年(1763)に建立した芭蕉翁俤塚もあったそうだが見落とした。
 
大島蓼太墓碑。「雪上加霜」と刻む。天明7年(1787)没。     雪中庵1世嵐雪と2世吏登の墓碑など、雪中庵一門関係の碑が並ぶ。
 
江島杉山神社。藤沢市の江ノ島弁財天(市杵島比売命)と、鍼術の神様・杉山和一(1610~94年)総検校を祀る。杉山和一は江ノ島弁天の岩屋にこもり鍼術の一つである管の中に鍼を入れる管鍼術を授かる。更に研鑽に努め鍼の名人として有名になり将軍綱吉の治療にも当たった。綱吉から当地に屋敷と弁財天の社地を賜ったという。  
 
 太鼓橋から社殿を望む。    「いわやみち」寛政八丙辰の文字が見える。
 
 岩屋の内部。正面に須山和一の石像。    奥に人頭蛇身の宇賀御魂神(弁財天)を祀る。
 
 杉山検校頌徳碑。上に胸像下に点字を刻む。
点字の碑は世界でこの碑一つだけの由。
   杉山鍼按治療所。延宝8年(1680)杉山流鍼治稽古所を開く。世界初の障害者教育。
 
塩原橋から竪川を見る。竪川は万治2(1659)年に開削され、旧中川と隅田川を東西に結ぶ運河上に首都高が走る。橋名は近くに住んでいた塩原太助にちなみ名付く。実在したんだ! へえ。    塩原太助屋敷跡を尋ねていくと、出羽の海部屋に通りかかった。出羽ノ海部屋は寛政期に始まり、常陸山、三重ノ海など横綱9人、大関8人を輩出した名門。

回向院は、明暦3年(1657)の振り袖火事、明暦の大火で、10万人以上が亡くなる。将軍家綱は身元のわからな無縁の人々の亡骸を葬るようにと現在地に土地を与えて供養したのが回向院の起源。それ故「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説く」のが回向院の理念だそうだ。  

 
本堂だって。21世紀の寺院の姿なんだろう。    明暦大火供養塔(左端)を銀杏の紅葉が彩る。
 
 溺死者四十七人墓。明治2年、熊本藩の船が房州沖で沈没、死者260余。そのうち識者の墓。    大震災横死者墓。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で亡くなった10万余を供養。
 
実に熱心に石を削っているのは、鼠小僧次郎吉の墓石。石を持っていると博打で勝てる、金回りがよくなる、受験生などには「するりと入れる」とか。削るための「欠き石」はぼこぼこ。     次郎吉の墓。中央に「教覚速善居士」
天保二年八月一八日 俗名中村次郎吉の墓
寛政9年(1797)生まれの盗賊で天保3年(1832)8月19日に浅草で処刑さたそうだ。
僕等は読経の声を聞きながら、やはり僕には昔馴染みの鼠小僧の墓を見物に行つた。墓の前には今日でも乞食が三四人集つてゐた。が、そんなことはどうでもい。それよりも僕を驚かしたのは膃肭獣をつとせい供養塔と云ふものの立つてゐたことである。僕はぼんやりこの石碑を見上げ、何かその奥の鼠小僧の墓に同情しないわけにはかなかつた。」 芥川龍之介 本所両国
 
 力塚。相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊の為に建立。富岡八幡宮などの後、天保4年(1833)から明治42年の旧両国国技館が完成する勧進相撲がここで開かれた。    猫塚。猫をかわいがっていた魚屋が病で商売ができなず、生活が困窮していたら、猫が二両の金を加えてきて助けた。その猫はまた金をくわえようして殺された。その猫を葬ったそうだ。
回向院へはいわば横道から出入りしたので、近代的な山門や門前の力士像、旧国技館跡の看板があることに気づかなかった。何でも横道はいけません。  

2 本所松坂公園から北斎通りへ   INDEX

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