佐野のあちこち
栃木県佐野市。佐野でも北の端、足尾山地の懐にずっと深く分け入ったところに、おいしい蕎麦屋があるというので、市内のあちこちを探索しながら出かけて見ました。市街地はここから30分ほどの近距離で、これまでにも数回訪れたことがあるのですが、初めて知ることもたくさんありました。 |
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金色に輝く壮麗なお寺は、佐野厄除け大師として知られ、正月には近在から百万の信者を集めるという惣宗寺。 |
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惣宗寺の山門をくぐると正面に田中正造の墓。「嗚呼慈侠田中翁之墓」 正造の墓は分骨されてそれぞれゆかりの処7カ所に分骨された。 墓の前には当時中学生だった啄木が直訴に感動して詠んだ 「夕川に葦は枯れたり血にまどう民の叫びのなど悲しきや」 という碑石もある。 |
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平地の街の中心に城山公園とは奇異に思っていたが、行ってみると高さ50mほとの山。 佐野氏が、慶長12年 唐澤山城を廃してこの地に移ったが間もなく改易となり、未完のまま廃城。 城は未完だったそうだが、三の丸・二の丸・本丸・北出丸と空堀で区切られた遺構が残っていた。 二の丸跡から本丸跡を望む。 静かな公園が街中にあるっていいなあ。 |
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正造の生家の直ぐ近くにある人丸神社。人丸=人麻呂、つまり柿本人麻呂を祭神とする神社。 人麻呂がこの地に来たんだそうだ。ご苦労なことです。 「下野の安蘇野の原の朝あけにもやかけわたるつづら草かな 人麻呂」 |
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傍らに田沼扇状地の末端に湧出した地下水は、池となり、水田をうるおす才川の水源。大きな鯉が悠々と泳いでいた。 「手洗へてみなくちそゝぐ田毎にぞ いのるみなかみ人丸の水 正造」 |
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田中正造の生家。県道に面した隠居所。この裏に茅葺きの母屋と土蔵がある。 没後この地の農民団体に寄贈され、今なお管理に当たっている。 |
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生家の前、県道を挟んで「田中正造誕生地墓所」がある。 |
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出流原弁財天。 藤原英郷が天暦2年(948年)に勧進したといわれ、山の中腹にある三層楼の舞台造りのお堂。 登ると一帯の眺望が開けるそうだが、到底そんな元気はないので断念。 |
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出流原弁天池。 「古生層石灰岩の割れ目から清水が湧きだす。とても厚い土の層をフィルターとして濾過された水は、水温は年間を通し約16℃をほぼ保ち、豊かな水量を誇っています。」として出流原弁天池は、県の天然記念物、また環境庁指定の日本名水百選にもなっている。 名水そば、名水豆腐、名水ラーメン……、名水様々です。 |
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佐野の市街地から随分走ってやっと評判の蕎麦屋「かみやま」 店の外には沢山のベンチがあり、土日にはここもいっぱいになるんだとか。 天麩羅蕎麦1000円。最初の一口がおいしかったこと。写真を撮るのを忘れてしまった。 自家製粉の地粉と湧き水と山あいの景観が味を決めるのでしょうか。 |
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蕎麦屋と言ってもただの民家。畳敷きの和室にいくつもの座卓。 家族総出で客の接待という感じ。 評判を聞いて相当遠くから食べに来るのだそうだが、この日はお昼にちょっと早かったのか、客は10組ぐらいかなあ。 右から2台目が私の愛車。 |
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蕎麦屋の脇の県道。 この先を更に登って、あの山なみの間の粕尾峠を越えると足尾町。 この先にも人家はまだあるようです。 |
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蕎麦を食べての帰り道、道路は「秋山川」に沿って下っていく。澄み切った水が水音とともに流れ下る風景は良いものです。 なんという花か知らないが、花が丁度満開の2輪。 |
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願成寺。 なんと言うこともない小さなこの寺に寄ったのは、謡曲「鉢木」で名高い佐野源左衛門常世の墓があるというので。 山裾の狭い道の奥、その名も「鉢木町」にありました。「願成寺は藤原秀郷公の開基といわれており、建長年間に常世は衰微した寺を再興し、菩提寺として、代々祖先の霊を厚くまつりました。」 |
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佐野源左衛門常世の墓。 「佐野」というから「佐野」の住人だったのでしょうか。そして執権時頼がこの佐野まで来たんでしょうね。 その時の常世の住まいはここから少し離れた処に屋敷跡と言われるとことがありますが。 |
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関東七名城の一つである唐沢山城の「ますがた」の石垣。 |
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今は県立公園として、桜、つつじ、秋は紅葉や松茸狩りなどで市民の憩いの場となっている。 天気がいいと富士山や東京も見えるそうです。 |
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山頂部の本丸跡の藤原秀郷を祀った唐沢山神社。 二の丸から本丸へ石段の左右の石垣も当時のままだそうです。 |
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天応寺本堂。 どういうわけか、彦根藩主で安政の大獄を進めた大老井伊直弼の墓があるというので訪ねてみた。 |
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墓地の中央を貫く石段を登っていくと、最上段に井伊家の墓地があった。 右から二代直孝、三代直澄、十三代直弼。 佐野には彦根藩の飛び地一万八千石の領地があった。そのため、遺髪を納めて墓地を設けたそうだ。 井伊家の墓地は東京の豪徳寺にある。 |