佐野を歩く2ー 真田父子、藤原秀郷、木曽義高、天狗党 

慶長五年(1600)、天下分け目の関ヶ原の合戦を目前に控えた七月二十一日、徳川家康について会津の上杉家家討戌に向かった真田昌幸、信幸(信之)、信繁(幸村)父子は下野国犬伏(現在の佐野市)に到着しました。そこで陣を張っていた父子のもとに石田三成から密書が届き、豊臣方に味方するよう書かれていました。この書状を受けて父子三人で話し合い、どちらが勝っても真田の家が残るよう、信幸が徳川方、昌幸と信繁が豊臣方に分かれて戦うことを決断したとされています。
 その話し合いの場がこの薬師堂であったといわれており、すぐそばを流れていた川に架かっていた橋は、真田父子の別れ稀としてこの地に語り継がれています。(現地掲示板)
 関ヶ原の時、真田父子三人は家康に従って会津へ向う途中、石田三成からの使者が来た。昌幸は信幸、幸村の兄弟に告げて、相談した。……この会談の場所は、佐野天妙であるとも云い、犬伏と云う所だと云う説もある。
……後年の我々が知っているように、石田方がはっきり敗れるとは分っていないのだから、父子兄弟の説が対立したのであろう。そして、本多忠勝の女婿である信幸は、いつの間にか徳川に親しんでいたのは、人間自然の事である。……そして、昌幸の肚の中では、真田が東西両軍に別れていればいずれか真田の血脈は残ると云う気持もあっただろう。(菊池寛 真田幸村)
 
 新町薬師堂。真田父子犬伏別れの地。街道沿いの大きな前方後円墳の裾、道路から一段と高い処にに小さなお堂が一つ。堂の前に僅かな広場があったが……。
 
浄土宗天應山昌綱院大庵寺。犬伏宿から一歩入る。永禄11年、唐沢城主佐野昌綱が家臣の津布久昌成の菩提を弔う為開く。真田父子犬伏の別れの地は当寺だともいうが。……なるほど、こっちの方が合理的だと思うがなあ。     天は二物を与えず 河中孝準師作
身体丈夫な人頭が悪い 頭のよい人身体が悪い
器量のよい人愛想が悪い 愛想がよい人器量が悪い……
金のある時暇がない 暇のある時金がない
お金お金と無理してためて ためた途端に生命が… 
   全文
…(昌幸は)犬伏という部落に宿営したが、その夜上方からの飛脚が石田三成の密書を持ってきた。。昌幸父子はそれを部落の小さい寺の中庭で読んだ。春とは言え夜風の冷たい…(井上靖 真田軍記) 

…真田幸村は、天明から犬伏へかけて、部隊をとどめ、自分は犬伏の土豪・大栗太郎左衛門の屋敷へ入った。…真田信幸は二十五騎を従えて犬伏の父の陣屋へ到着した。…「伊豆守様ご到着にございます。」と聞いた真田昌幸が折しも側にいた重臣の河原綱家へ、「伊豆守をこれに通し、構えて人を近づけてはならぬ」……(池波正太郎 真田太平記) 
唐沢山城は関東七名城の一つ。唐沢山(247m)全山に曲輪が配された連郭式山城。藤原秀郷は延長5年(927年)に下野国押領使に任ぜられ唐澤山に城を築いく。天慶の乱の平将門を滅ぼし、その功で下野守、さらに武蔵守に任ぜられた。その後代々子孫が城主となり、約700年間、佐野修理大夫信吉の代まで続くが、慶長7年(1602)、幕府の山城禁止命で近くの春日山に移り廃城となる。明治になって一族、旧臣が秀郷を祭神とする唐沢山神社を本丸跡に創建する。
戦国時代、関東の小領主は北条、上杉の二大勢力の間で翻弄された。唐沢城も上杉に助けられたり攻められたり。謙信には10度も攻められたとか。
 
唐沢山神社参道。鳥居の足下に「松茸料理」の看板。唐沢山は松林が多く松茸の名所。9~10月になると、松茸狩りもあり、松茸フルコース(6500円)などの料理が食べられるんだって。    「鏡岩」上杉謙信が唐沢城を攻めた時、西日が反射して攻めることが困難だったという。その時の兵火で焼かれ鏡面が削られたが今も一部は反射するとか。覗いてみたが分からなかった。
 
 枡形。白と黒の二匹の猫が城を守っている?
此処では何匹もの猫を見かけたが飼猫?
  枡形を内側から。高い石垣が築かれているは、この時代には珍しいそうだ。
 
 天狗岩。物見櫓があったところで、南面に出た岩がちょうど天狗の鼻のようだったので名づけられた。展望案内によれば、新宿高層街、富士山、妙義山、浅間山、赤城山も見えるそうだ。それにスカイツーも。
江戸城の火災も見えたかも知れない。佐野氏が早速早馬で見舞いを差し向けたら、城を覗くとは怪しからんと、江戸20里四方の山城は禁止になって廃城にされたという話もあるとか。城は丁度20里に位置。.
 
大炊井。深さ9m、直径8mもあり、今日まで水がかれたことはないそうだ。 濁ってはいたが。   神橋。空堀に架かる。外敵に備えて使わない時は引き上げてしまう曳き橋だった。
 
四つ目堀。神橋の下の空堀で、当時はもっと深かったものだと思われる。     参道。右端は深い傾斜面。奉納の旗に、馴染みの名前も見えた。
 
 引局跡。奥女中の詰め所跡。   楼門。 
 
 唐沢山神社拝殿。ここが本丸跡。   本丸下石垣。当時のままだそうだが、当時とは? 
 
二の丸跡。奥御殿直番の詰め所跡。武者詰。    三の丸跡。賓客の応接間があったところ。
 
藤原秀郷像。百足退治の伝説ゆかりの地、大津の瀬田唐橋の右詰に建つ。   藤原秀郷墓。唐沢山から2km余の地。直径24m高さ3mの円墳。正歴2(991)9月没。ここに葬ると。
木曽義仲の嫡男清水冠者義高は、11歳の時に頼朝の長女大姫の婿という名目で人質として鎌倉へ送られる。のち都に入った義仲を討つため、頼朝は範頼と義経を派遣、寿永3年(1184年)、義仲は粟津で討たれた。これを知って大姫は義高を密かに逃がすが、狭山市入間川で討ち取られた。 いえいえ↓ 
 
 臨済宗建長寺派妙光山報恩寺。木曽義仲の子清水冠者義高がこの地まで落ち延びて佐野家に仕え、名を佐野(岩崎)越前守義基と改め、父祖の霊を弔う為に当寺を建て、栄西を招請して開山。   御所様の墓。報恩寺を更に道を登り御所の入の杉林の中に、八幡大神の石宮を挟んで二基の五輪塔が建つ。木曽義高とその妻の墓とか。護良親王が当地に2か月余り蟄居したところとか。
 
 大徳寺宝衍(佐野房綱)墓所。       報恩寺    佐野房綱勲功碑。
佐野房綱は佐野昌綱の次男。仏門に入り大徳寺宝衍となる。のち、秀吉に仕え、小田原征伐で軍功をたて佐野3万9千石を安堵され、唐沢山城に戻り名を房綱と改む。慶長6年没、遺言により当寺に葬る。
 
岩崎八幡宮。 岩崎を名乗った義高と子の義持の居城跡。拝殿はたくさんな彫刻を施した見事なもので、覆い屋で保護している。城跡とおぼしき遺構などはどこにも見当たらなかった。 「木曽義仲史跡・伝説一覧表」によれば、義高の伝説の地は埼玉に2、栃木に14か所、そのうち佐野に6か所あるが、なぜ?
 
 曹洞宗泉応院。開山は正中元年(1324年)12月。開祖は泉應院恵昌法師。法師は尊雲法親王(護良親王)の門徒となり、尊雲法師の御護り本尊である馬頭観世音一体を賜り、泉應院の本尊としたが、南の局の命によりその草庵に移された。この南の局とは護良親王に仕えた女官で出家して草庵を佐野市内に結んだとか。 そこに 義仲の守り本尊の地蔵尊が祀られている??? 
 
本堂内部。平家の揚羽蝶紋?    つく鐘もひゝくやう也せみの聲  ばせを翁
 
熊野神社。祭神は伊弉那岐命と伊弉那美命の二柱。天明宿の外れ、秋山川を背にした小さなお社。
そこに「勤皇の志士 出流天狗殉難碑」が建つ。出流天狗とは、佐野近隣の農村の若者など160人が尊王攘夷を叫んで、水戸天狗党に倣って1867年に栃木市の出流山・満願寺や岩船山などに立てこもる。近隣諸藩の幕軍1200名の鉄砲隊が山を包囲して78人を殺し、残りを捕縛した。  
 
 捕縛された者は「慶応三年十二月十八日 天明河原で四十一人斬首」。その中には、国定忠治の息子で、萬願寺で修行し僧になった千乗も含まれていたという。               ↑天明河原 
 
佐野はラーメンの街。1万2千余の人口に210余軒のラーメン店。「湿度の低い冬と内陸型の蒸し暑い夏という気候風土、良質の水、麺に適した良質の小麦と、青竹打ちによる製麺技法が独自の味とコク、腰の強いおいしい舌ざわり。スープは透明感のあるさっぱりした味でしつこくない。」(観光協会)そうだ。
眼についた店に飛び込む。私はラーメンに特別のこだわりはない。鉢いっぱいの800円のチャーシュー麺。絹さやの香りがいい。 成る程「透明感のあるさっぱりした味でしつこくない」。とにかくおいしかった。

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