関口芭蕉庵とその界隈
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昔は都内を縦横に走っていた都電だが、今は三ノ輪橋から早稲田までの荒川線が唯一残っている。交通量の多い道路は、電車用の信号もあって電車の方が停まる。 | 東池袋四丁目から都電雑司ヶ谷、鬼子母神前、学習院下、面影橋、そして終点の早稲田まで乗る。この間8分。料金は均一料金の大人160円だけ。 | ||
大都会の裏通りや車の通る道路を離れて、時速何キロか知らないが、ゆっくりと走る一両、昔ながらの「チンチン」の音も現役だったのが嬉しかった。 | 終点早稲田駅。ここだけは立派な駅舎もあった。乗ったのは通勤帯を過ぎた時刻だったが、満員の乗客。、今なお貴重な足となっている。 | ||
早稲田駅で降りて、北に数10m進むと神田川に架かる豊橋に出る。両岸には桜が植えられ、木陰の遊歩道はのんびりと散歩を楽しむ高齢者姿が多かった。 | 豊橋から川をのぞき込むと、水面までは随分距離があるようだ。川底は天然の岩盤を削ったままのようだが? 川というより排水路と言うべきかな。 |
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大滝橋。この辺に大洗堰が設け取水していたそうだが何もない。「神田上水取水口大洗堰跡」の説明板のみ。 | 「神田上水取水口石柱」近くの江戸川公園に移築保存。 これで取水量を調節し余水はお茶の水から隅田川へ。 |
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大洗堰より少し上流の胸突坂の左に水神社、その右に目当ての芭蕉庵があった。坂の下は「駒留橋」 | 芭蕉庵の隣は「水神社」神田上水の守護神とか。その左隣は新江戸川公園。 | ||
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「関口芭蕉庵正門」 道一つ挟んで神田川に向かって建つ。普段はここからは入れない。 | 胸突坂に面した関口芭蕉庵の入り口。入場無料。月曜日は休館。 |
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芭蕉庵。中には各種の資料を展示する一室もある。背後は椿山の傾斜地。 | 「范石湖の詩碑」元宮内大臣田中光顕が建てる。 山荘八景に欠けた帰帆を補うために建てる。 |
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ひょうたん池。湧き水が池に流れ込んでいた。蛙は見えないが亀が甲羅干し。 | 夜寒碑。宝暦3年、俳人紀逸が建つ。 「二夜鳴一夜はさむしきり/″\す」 |
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芭蕉句碑 (真筆)。池を背に建つ。 「古池や蛙とび込む水の音」 |
芭蕉句碑の傍にホトトギスがひっそりと咲いていた。 園内は起伏のある曲がりくねった細道が続く。 |
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「芭蕉翁之墓」(さみだれ塚) 「五月雨にかくれもせぬや瀬田の橋」の芭蕉の句の短冊を埋めて墓とする。寛延3年(1750) |
芭蕉堂。堂内に芭蕉像を中心に、高弟の其角、嵐雪、去来、丈草の像が取り巻いているそうだ。 |
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江戸後期の戯作者、狂歌師朱楽菅江(あけら かんこう)狂歌辞世碑。 「執着の心や娑婆に残るらん吉野の桜更科の月」 |
伊藤松宇句碑。松宇は明治初期俳壇の先覚五人衆のひとり。晩年はここに住む。 「真中に富士聳えたり國の春」 |
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神田川沿いに大きな公園があったので立ち寄った。「文京区立新江戸川公園」 目白台1丁目1番。 | 新江戸川公園は、元細川越中守の下屋敷で、明治になって細川家本邸となる。戦後、公園として開園される。 | ||
新江戸川公園。木立に包まれた「松聲閣」はもと細川家の学問所。今は区民の集会所。紅葉が見事だろうな。 | もとの細川邸をそのまま公園にしたもので、目白台の地形の変化を巧みに利用した回遊式泉水庭園だって。 | ||
「永青文庫」室町幕府の管領一門、熊本54万石の細川家の下屋敷跡。文庫は細川家の南北朝からの歴史資料や収集された絵画や陶磁器などを公開。 | 椿山荘。明治の元勲山縣有朋の元屋敷。ホテルや宴会施設などが広い庭園に点在する。椿などの各種の樹木が生い茂る。多くの女子高生達も散策していた。 |