瀬田の唐橋に夕照を待つ     
                            近江に芭蕉のゆかりの地を尋ねる 1    

宿の石山寺に行く前に、直ぐ手前に近江八景で名高い「瀬田の唐橋」があるので、運がよければ夕日に浮かぶ唐橋が見られるかも知れないという、かすかな希望で、訪問の時間を合わせてきた。それに、子供の頃祖母から聞いたたくさんの昔話の中の「俵藤太の百足退治」の舞台の唐橋にも興味があってたち寄った。
 
 瀬田川を渡ると直ぐ石山駅。京阪石山駅と接続する所に芭蕉が待ち受けていてくれた。   京阪石山から一駅、唐橋前で降りると、旧東海道が唐橋へと続く。
 「瀬田橋を制するものは天下を制する」といわれ、京と東国を結ぶ軍事、交通の要衝であった。672年の壬申の乱、764年の藤原仲麻呂の乱、1184年の木曽義仲と源範頼・義経の戦い、1221年の承久の乱、1582年の本能寺の変等の戦乱の舞台となった。戦乱のたびに橋は焼かれたりして、何回も架け替えられた。現在の地に架けさせたのは信長で、1575年、長さ大小合わせ180間(約327m)、幅4間(約7m)の大橋を僅か90日で完成させたそうだ。現在の唐橋は、1979年(昭和54年)に架け替えられたコンクリート製の橋で全長は中ノ島を挟んで 大橋172m、小橋51.75m、幅12mあるという。
 
 所々に、随分古い擬宝珠があった。かすかな文字を辿ると「明治」「文政」などが読み取れる。    瀬田川は今も交通の要衝で、唐橋を挟んで鉄道・道路の幹線が6本も架けられている。目の前は新幹線の鉄橋。
 
  琵琶湖から流れ出る唯一の瀬田川は、その名を宇治川、淀川と変えそれぞれに架かる宇治橋、淀橋と共に三大名橋と呼ばれてきた。   橋のたもとの石山商店街。天下の東海道沿いらしい造りの店舗がそのまま残されて続いている 。
 
 雲の間に僅かに明るみが見えるが……    近江八景「瀬田の夕照」         安藤広重
 
 「瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなかったが、藤太は大蛇を踏みつけて渡ってしまった。その夜、娘が藤太を訪ねた。娘は琵琶湖の龍神で、あの大蛇も龍神の姿を変えたのだった。龍神は三上山の百足に苦しめられているので、藤太の勇気を恃んで百足退治を懇願した。
 藤太は快諾して三上山に臨むと、三上山を7巻き半する大百足が現れた。藤太は矢を射たが大百足には通じない。最後の1本の矢に唾をつけ、八幡神に祈念して射るとようやく大百足を退治することができた。藤太は龍神の娘から、米の尽きることのない俵などの宝物を贈られた。」
  娘ではなく上の碑石には「老翁」、右の絵では藤太は唐橋の上。俵ではなく砂金俵、巻絹、鐘等を貰ったとも。
 
 藤原秀郷(俵藤太)は平将門の平定で功を挙げる。
瀬田唐橋西詰めの中洲の草むらから橋を眺めていた。
   龍光山秀郷院雲住寺。応永15年(1408)藤原秀郷より14代目の小御門城主蒲生高秀が秀郷追善のため建立。
 
 雲住寺百足堂。藤太に退治された百足の供養堂。寺には百足退治の縁起を刻んだ版木、藤太ゆかりの太刀の鍔や蕪矢などが伝えられているそうだ。    勢多橋龍宮秀郷社拝殿。瀬田川龍神と俵藤太秀郷を祭神として祀る。百足も龍神も秀郷もこの地に仲良く祀られて、結構結構!
 
 「五月雨に隠れぬものや瀬田の橋」 芭蕉 瀬田河畔
芭蕉は度々瀬田川に遊んで句を残している。
  艸の葉を落るより飛螢哉   (をつを昔)
  この螢田毎の月にくらべみん (みつのかほ)
  橋桁のしのぶは月の名残り哉 (をのが光)
  蛍見や船頭酔ておぼつかな  (猿蓑)
石山寺附近       長塚節
 蜆とる舟おもしろき勢多川のしづけき水に秋雨ぞふる 
  瀬田城址。戦国時代、瀬田川畔に城を築いたの山岡景房。織田信長の命によって瀬田橋をかけた当時の城主山岡美作守景隆は、本能寺で信長を討ち安土城に向う明智光秀と瀬田川で対戦したが、力つき自ら城に火を放って以来廃城となり、今はわずかに路傍に石垣を残すばかり。

 
 あいにくの曇り空で、名高い「瀬田の夕照」は望むべくもなかったが、瀬田川から吹き寄せる川風に、汗が引いて心地よかった。大学生のボートが川面を滑っていく様子や、犬を連れた散歩姿を眺めるのも心やすまる心地がした。
さあ、あと一駅だけ電車に乗って宿へ直行!

石山寺に中秋の名月を眺める    INDEX

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