白凰・天平の風薫る?下野市

久しぶりに青空がのぞけるようになったというのに、一人で家の中での留守番も能がない話だと思って、「白鳳の風薫る歴史の里」というパンフを見て下野市に出かけてみました。日光街道を30kmほど北上したところです。

「歴史の里」は、のんびりとした田園地帯にありました。遺跡を訪ねる人も3人見かけたきりで、物静かなものでした。発掘も半分ぐらいしか進んでいないようで、更に調査もするのでしょう。

帰りに白鳳から天平へと時代を下げて「天平の丘」に寄ってみました。ここは前にも一度行ったことがありますが、遺跡には寄らなかったので。広い芝生だけですから、遺跡には人影はありませんでした。

天平の丘という名前を聞くと素晴らしいところのように思えますが、実は名前だけで、天平などどこにも見あたりません。ただのんびりと出来ることは確かで、10人前後の人が楽しんでいました。

家の中でくすぶっているよりも、ちょっとしたドライブになりました。


 安国寺

門柱には「旧称下野薬師寺 医王山 安国寺」と掲げられている。

一休さんがいたのも安国寺。足利尊氏が国家安寧を願って、一国一寺として全国68カ所に建てられた。

ここは尊氏によって薬師寺から安国寺にされた。

 薬師寺礎石

下野薬師寺は、7世紀末に創建。
当時、租税を免れるべく、勝手に僧侶を名乗る者が後を絶ないので、朝廷は、正式な資格=戒位を持つもののみを僧と認められるよう、戒位を授けられる僧としてを唐から鑑真を寄せた。
そして、僧を認めることが出来る場所=「戒壇」を持つ寺院を、畿内の東大寺、西国の筑紫観世音寺、東国の下野薬師寺の3カ所に定める。

 復元西回廊部分

掘された礎石などから、南北一直線に、南門、中門、金堂、講堂、僧坊に並んでいた。中門と金堂を東西の回廊で結ばれていた。その中に東金堂、西金堂塔があった

復元されているのは回廊の北西部のごく一部分。
ここにも出入り口があった。



 復元西回廊内部

東大寺などの建物を参考にして復元したそうで、土壁は漆喰仕上げ、柱はベンガラ塗り、連子窓は緑青塗り……

「青丹よし奈良の都」と同じような建物が幾つも並んでいたのだろうか。

  戒壇院址(安国寺六角堂)

薬師寺戒壇院址に建てられいる安国寺六角堂。
堂内には戒壇を担った鑑真和上の画像をおさめた逗子が安置されている。


建物は勿論、屋根、礎石、柱まで完全な正六角形の珍しい建物だと説明されていた。

 龍興寺山門

安国寺の直ぐ近くに「下野薬師寺別院」の龍興寺がある。

三戒壇を開いた鑑真和尚(638〜763)が「唐の楊州龍興寺の舎那殿壇の法をここに移して龍興寺と名付けた」と寺の略縁起に記す。

 鑑真和尚碑

戒壇設立の要請を受けて鑑真は、日本への渡海を八回試みたが暴風、弟子や役人の妨害などで来日できず、その間に盲目となったが、秘かに遣唐使船に乗って宿願を果たす。
754年に平城京に到着し、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、三カ所の戒壇を設けた。

ここは弟子達が建てた供養塔とか。傍らの菩提樹の大木は鑑真の杖が根付いたと伝えられる。

 道鏡塚

孝謙天皇の寵愛を受けたのか取り入ったのか知らないが、大政大臣迄上り詰めた弓削道鏡は、天皇の没後、政敵のために770年下野薬師寺別当に左遷され、772年に歿しここに葬ったと伝えられる。

「従来の正史は、その時々の権力者の都合で記されたもので、決してありのままでなかったことを遺憾に思います。」と記された『道鏡を守る会』の看板があった。

 自治医科大学聖霊殿

「大学の聖霊殿」? なんだろうか。直ぐ近くに自治医科大があるけれど……
献体された人の供養のためなんだろう。


背後は薬師寺小学校。この日はちょうど運動会で、行進曲、子供達の歓声が聞こえて来る。ここなら賑やかでなによりだ。

 下野国分寺跡

 ここは薬師寺から10kmほどの処にある下野国分寺跡。聖武天皇の勅願で741年、全国に国分寺と国分尼寺が建立された。

説明板によると東西413m、南北457mもの大きなもので、南大門、中門、金堂、僧坊、北門と一直線に並び、さらに鐘楼、経蔵、それに七重の塔があったそうだ。

 下野国分尼寺跡

国分寺から数百m離れた処にある。国分寺より一回り小さく東西145m、南北157mで、塔はなかったが、建物群は国分寺と同じ。
本尊を安置した金堂は、間口七間、奥行四間で、床は石貼り、瓦葺き、丹塗りの荘厳なものであった、と想像されると説明にあった。

尼さんが10人いたとあるが、何で人数がわかるのか不思議だ。


 天平の丘公園

国分尼寺に接して、「天平の丘公園」が設けられている。「天平」はいいのだけれど、ここは「蕪村街道」。売店は藤村の「夜明け前」から漱石も登場していたなあ。どう名前を付けたっていいけれど、少しは「天平」を考えたらどうだろうかと思った。

「万葉植物園」もあったけれど、ススキが穂をだしていただけ。ここはぶらぶらするのはいいところだが、名前倒れ。
 

 伝紫式部の墓

公園の片隅に紫式部の墓として、随分時代がかった五輪塔がある。さすが「伝」の字だけはつけているのが正直でいい。

この辺りの地名が「紫」、そして塔はこの近くにあったと説明されていたが、正直すぎても、興味が薄らいでしまう。

「……と言われています」としてあれば、何でもいいと思うのだが。

 万葉歌碑 

下野の物部真嶋が防人のため故郷をたつときの歌

「麻都能気乃奈美多流美礼波……」
 まつのきのなみたるみれば……
 松の木の並たる見れば……

松並木が自分を見送っている家の人に見える
そんな意味のようだ。

  柿本人麻呂歌碑

東(ひんがし)の
野に炎(かぎろい)のたつ見えて
かえり見すれば
月傾きぬ

近くの交差点の脇に、丁度満開の百日紅のもとに万葉集の柿本人麻呂の歌碑が建っていた。碑文はルビなし。

この歌は知っていたが、学校で勉強したのかな?

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