奥の細道

松尾芭蕉は、曽良を伴って、草加から日光街道を北上し、栃木市の「室の八嶋」から鹿沼から日光参拝のあと、那須野を通って黒羽、殺生石を廻ってから「白河の関」への道を進んだ。
芭蕉の足跡を辿って、黒羽から白河まで行ってみようと思ったが、170kmほどで、ちょっと懸念されたので、黒羽を断念して、新幹線で直接白河に行き、ゆかりの各地を廻ってきた。

芭蕉の道順とは当然違うが、最初に白河から「峠の明神」へ陸羽街道(国道294)を南下して行った。


明神へ行く途中に「金売吉次兄弟の墓」があった。
ここで強盗に殺されたという。義経も奥州への途上、弔ったとそうだ。壬生にも吉次だけの墓があったが……


従是北白川領」下野と陸奥の国境の峠に建っている。
両国にはそれぞれ神社があり、ともに「境の明神」と呼ぶのだそうだ。



陸奥側の「玉津島明神」境内に
「風流のはじめや奥の田うへ唄 ばせを」
などの句碑や歌碑があるはずだが、確かめられなかった。


境の峠から陸奥方面を見る。ここから「みちのく」  「お気をつけて 栃木県」の標柱。
   「福島県 294 白河市」の標識。



下野側の「玉津島明神
玉津島明神は内を守る女神、住吉明神は外に備える男神。だからどちらも自国の方を玉津島で、反対側を住吉明神というのだって。


国境の峠から下野側、栃木県那須町を見る。
芭蕉達もこの路を向こうから辿ってきて境の明神で道中の安全を祈ったのだろう。この先から脇道に入って白河の関に向かう。


山あいの道を10kmほど行くと関跡の隣に「白河関の森公園」があり、そこで芭蕉と曽良が出迎えてくれる。


この公園は移築した民家や模造関所の建物もあるが、史料的価値はなさそう。
ここで昼食に蕎麦を食べたが、是は美味しかった。


県道に沿った小高い森の木立に囲まれた白河神社。数人のグループ、二人連れの年配者、訪ねて来る人は、あまりいない。周りは商店もほとんどなくて、「閑静」なところだ。


ここが「白河の関跡」だとしたのは白河藩主松平定信だそうだが、境の明神の所という説などもあるとか。今は国指定の史跡としてお墨付きがある。


松平定信がここを白河の関と断定して寛政12(1800)年に建てた「古関蹟」。碑陰に『白河関址、埋没不知其処所者久矣……』と建碑のいわれを刻んでいる。


源義経が平家追討のため平泉を出発し、ここの社前で戦勝祈願をした時、この桜に源氏の旗を立てたと伝えられる「旗立の桜



鎌倉初期の歌人中納言従二位藤原家隆が手植えして奉納したという「従二位の杉」。樹齢約800年、樹幹5mの見事な大木だ。


奥の細道白川の関」と題して奥の細道の一節を記した碑。『心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定まりぬ。……
 卯の花をかざしに関の晴着かな 曽良』


八幡太郎義家が清原氏討伐の前九年の役に際して、ここを通ったとき、社前の楓に幌を掛けて暫時休息をした。その楓を「幌掛の楓」として伝えられる。


空堀と土塁」のほか発掘調査で居館跡倉庫跡、西門・北門・南門跡や鍛冶場跡が確認されている。やはりここに関があったのだろうか。


たよりあらバいかで都につげやらむ
 けふしら河のせきはこえぬと 平兼盛
みやこをバ霞とともゝにたちしかど
 あきかぜぞふくしら河の関  能因法師
秋風に草木のつゆをはらハせて
 きミがこゆれバ関守もなし   梶原景季


関の明神、二所関明神とも呼ばれる神社。
ここにも玉津島、住吉の一対の神社があり国境の様子をなしていたらしいが、今では白河神社が建てられている。祭神に天太玉命、中筒男命(住吉三神の一)、衣通姫命(玉津島神社の祭神)を祭っている。


矢立の松
源義経が源平合戦の折、戦勝を占うために、この松に弓矢を射立てたといわれるが、今はその根もさだかではない。


県道を挟んだ手前は、関の名前になった「白川」が流れ、その先は水田が拡がっている。
江戸の昔とあまり変わっていないのではないかと思われる農村。


関の近くに「庄司戻しの桜」があった。義経が鎌倉に向かうとき信夫の庄司佐藤基治は継信、忠信を従わせ、「君に忠ならば生よ」と杖を挿したら、やがて美しい花を咲かせた由。


高名な連歌師宗祇が綿を背負った少女に出会い、綿を売るかと聞くと、『大隅の川瀬に住める鮎にこそうるかといへるわたはありけれ』と歌を返され、恥じて都に帰ったそうだ。ここを「宗祇戻し」という。


庄司戻しに「芭蕉の句碑」
『早苗にも我色くろき日数かな はせを翁』
芭蕉はそのまま市内の小峰城址に向かった


新白河駅に帰り着くと旅姿の「芭蕉像」がひとりで出迎えてくれた。こちらはここから甲子温泉の宿に向かった。

          まだ新緑の甲子温泉へ      

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