諏訪の文学散歩 その1  アララギ派歌人ゆかりの地

島木赤彦は明治から大正期に掛けて活躍したアララギ派の柱石となった歌人。教職の傍ら、伊藤左千夫に師事し詩歌に親しむ。校長、郡視学を歴任するが辞して歌誌「アララギ」の編集に当たる。万葉集研究、作歌の他童謡の創作に取り組む。(1876~1926)

土田耕平は島木赤彦に師事した歌人。若くして父に死別、中学を中退、代用教員として母や兄弟を支える。二十代から不眠症など諸病を患い、伊豆大島に療養するなど、以後各地を転々としながら闘病。作歌、新聞・アララギの選歌、童話の創作などに当たる。(1895~1940)

下諏訪でレンタサイクルを当て込んでいたが、出払って借りられず、車で諏訪市大和に向かう。大和は土田耕平の生まれ育った地であり、眠る土地でもある。そこから帰りながら島木赤彦の旧居や墓を訪ねた。
 
諏訪市大和(おわ)。 諏訪市の外れの甲州街道から少し上がった、湖を見下ろす高台。   浄土宗 清谷山寿量院阿弥陀寺。見事な茅葺きの本堂だったそうだが改築中。
 
土田耕平墓。妻のきみ子の墓と並ぶ。
案内の住職の好意の線香を供え墓参。
   黄水仙開かむとするふくらみに
  あしたの梅雨のしとどなる哉   耕平
 
下諏訪に島木赤彦ゆかりの地を訪ねるために起伏のある甲州街道を1kmほど歩く。   街道脇の双体道祖神。旅人も手を合わせ道中の無事を祈ったに違いない。
 
かつては常夜灯が街道を照らしていたのだろうが、頭部が破壊されて残念。    見事な建物は茶屋橋本屋跡。こうした旧家が所々に見られた。
 
高木津島神社。祭神は素戔嗚尊と牛頭天王
左千夫、茂吉、赤彦らの碑がある。
  夕日さし虹も立ちぬと舟出せば
    また時雨くる諏訪の湖  伊藤左千夫
 
諏訪のうみに遠白く立つ流波
  つばらつばらに見んと思へど 斎藤茂吉
  高槻の木末にありて頬白の
   さへつる春となりにけるかも 島木赤彦
 
 地図にない細い畑道を登る。かしこに矢印と赤彦の歌が墓へと導いてくれる。    赤彦、不二子夫妻の墓。旧居から数分の山際の高台。1926年(大正15年)没。
        先師墓 三首                           土田耕平
    おくつきへ道のぼりゆくはすかひに光ひろごる諏訪のづうみ
   七年をへだててわれはまゐりけり蝉啼きのこるおくつきどころ
   おもかげに立ちくる君よ目を(みは)りもはらに何を()らむとぞする
 
 赤彦旧居「柿蔭(しいん)山房」津島神社からほど近く木々に囲まれた茅葺きの赤彦旧居。諏訪湖を見下ろす高台に建つ。   門口に樹齢130年余の赤彦愛惜の胡桃。
「ある日わが庭の胡桃に囀りし小雀来たらず冴えかへりつゝ。赤彦」
 
間口8間半、奥行き5間半。氏族の家造りとしても評価が高い由。内部は非公開。   天つ日は時雨の雲のあひだより
 ひかりわかれて湖をてらせり  不二子
 
湖の氷はとけてなほさむし
   三日月の影波にうつろふ   赤彦
   庭の松四方にのびて地を這へり
   老いたるものに霜のさやけき 赤彦
 
 桑の葉の茂りをわけて来たりけり
    古井の底の水は光れり   赤彦
   「柿陰」そのままに旧居の傍らに大きな柿の木。庭の満天星は紅葉、秋海棠が咲く。
        柿蔭山房の冬                          島木赤彦
   朝な朝な湖べにむすぶ薄氷昼間はとけて日和つづくも
   湖向ひ日ねもすにして日のあたる枯芝山は暖く見ゆ
   雪の山さやかにうつるみづうみに暁鴨の動きゐるみゆ  
 
旧居から1kmほど、旧道から下ると湖畔の国道沿いに諏訪湖博物館・赤彦記念館。     記念館には赤彦の誕生から没年までの資料を展示。館外には赤彦像が端座。
 
 信濃路はいつ春にならむ夕づく日
  入りてしまらく黄なる空のいろ
     恙ありて 赤彦詠 不二子筆
  赤彦の碑の傍に。兄たちは皆田で下駄スケートをやったが、私が覚える頃から暖冬で、氷が薄くて覚えぬまま。 
 
 下諏訪宿。甲州道・中山道合流之地。甲州道は上諏訪へ、中山道は和田峠へ向かう。    今井邦子記念館・中山道茶屋「松屋」
以前入館したので、素通りして上諏訪へ。

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