紅葉の高遠を訪ねる 

かねがね、信州高遠を訪ねたいと思っていた。高遠は小彼岸桜の名所で、春には大挙して観光客が押しかけることで知られているが、また、いくつかの歴史の舞台でもある。
たまたま、所用のついでに立ち寄ることができるので、ちょっとだけ足を運んでみた。
 
 飯田線伊那市駅から、天竜川を越えて高遠をめがけて東進する。   途中見かける雑木林は、すっかり色づいて秋の気配。
  高遠の街道筋を通り越し、高遠城址を仰ぎながら、真っ先に足を運んだのは、高遠町歴史博物館。何故って、それは入館は4時30分まで、翌日の月曜日は休館日というので。
 歴史博物館の前では「保科正之、生母お静の方、お静地蔵」像が待ち受けてくれる。
  保科正之は徳川家光の異母弟。7歳で高遠藩保科家の養子となり、21歳で藩主となる。やがて最上20万石、会津23万石へと転封、将軍家綱の補弼役として幕政を支える。

殉死の禁止、社倉制度の創設、間引きの禁止、玉川上水の開削など、数々の仁政を施した名君であったという。

伊那市では、大河ドラマに取り上げるよう運動を展開中だそうだ。

左端は正之の母お静、中央はお静が奉納した地蔵

高遠ゆかりの数々の資料をさっと見ながら、古図によって復元した「絵島囲み屋敷」に向かう。

絵島は、大奥女中の最高位の大年寄(御年寄)に上り詰めたが、代参の帰路、芝居見物をし、その折り歌舞伎役者生島新五郎と馴染みを重ねたとして、高遠藩遠島となったと映画やドラマに描かれるが、大奥粛正の犠牲者だとか、権力争闘の陰謀説とか……。

絵島は33歳から61歳で没するまで28年の間、こんな屋敷に幽閉されていたことは、たしかのようだ。
ところで、絵島、江島どっち?
   
 
 囲み屋敷玄関。正面に番人詰所と台所。左端には下女詰所。他に番所、湯殿、仲間部屋、炭置き場なども、享保の古地図にはある。

   幕府からは厳しい処遇についての指示があった。
朝夕のみ一汁一菜、酒・菓子など出すな。衣類は木綿物、布帷子の他は禁止。筆墨、たばこ禁止。
扇子、楊枝、鋏、櫛、毛抜き、火鉢……は可。
 
 絵島の部屋は8畳。周りははめ殺しの格子戸。
遠くの山並みは見ることができたのだろう。
   屋敷の周りの塀には、忍び返し。二重に囲まれ、番人も居ては散歩にも出られない。
 
 曹洞宗竜沢山桂泉院。
元は高遠城内にあったが、この地に移転。
仁科五郎盛信らの位牌を安置する。
  桂泉院鐘楼。織田信忠が高遠城を攻めたとき、飯田市の名刹開善寺から引きずって来て、士気を鼓舞するために打ち鳴らしたそうだ。 
 
 伊沢修二生家。修二は藩校進徳館で学び、文部省勤務、愛知師範学校校長となる。アメリカ留学の後東京師範学校、東京音楽学校、東京盲唖学校の校長等を歴任、この間『小學唱歌集』を編纂する。   生家は高遠藩の20俵2人扶持の下級武士の家で、玄関はなく、屋根は板葺き石置き屋根。座敷、次の間、茶の間はあるものの、粗末な建物だ。建物の前には、大きな「伊沢修二先生出生之地」の碑。
 
 
 高遠湖越しに、今宵の宿の「高遠さくらホテル」を望む。高遠湖は、潅漑と水力発電用に三峰川をせき止めた人造湖(高遠ダム)。   高遠さくらホテルの客室からの夜景。宿の夕食和食会席膳は言うことなし。自家源泉の単純アルカリ泉も景色を見ながらゆったりと入った。 
 
 三峰川に架かる白山橋から見下ろす。右岸には高遠城。城までの高さは数十mになるようだ。   城址の東南端に立つ信州高遠美術館の櫓。この建物には何も説明がない??? 
 高遠城は三峰川と藤沢川に挟まる河岸段丘の突端に位置する。諏訪氏の一族高遠氏がよっていたが、武田信玄に攻められ、保科、秋山に次いで永禄5年武田勝頼が城主となる。天正9年には信玄の五男仁科五郎正盛が入城、その翌年信長の子織田信忠の軍勢により落城。その後、毛利秀頼、京極高知、保科正光、保科正之などのあと、内藤氏が明治まで続く。信玄は高遠城を落としたのち、山本勘助に命じて城の大改修をさせる。本丸を中心に五重の土塁や堀を巡らし、二の丸、南曲輪、勘助曲輪、笹曲輪などで防備を固めている。
 
 南曲輪の空堀。
廃藩置県の後、城は政府の命令で取り壊され、払い下げとなり、荒れ地となっていたが、旧藩士たちが、「桜の馬場」から桜を移植し公園と整備する。
   樹間に白兎橋を望む。
高遠固有種の「タカトオコヒガンザクラ」は、樹齢130年のものを含めて現在約1,500本。長野県天然記念物指定。
 
 空堀から桜雲橋を見上げる。桜に楓に、春秋を彩る。    桜雲橋下から空堀を見る。上も足下も真っ赤。ちょっと時期が遅いかな。
 
 桜雲橋から問屋門を望む。門は城下の問屋役所から移築。二の丸から本丸に架かる。    太鼓櫓。朝6時から夕6時まで偶数時太鼓を打って時を知らせたという。
 
 新城(盛信)神社・藤原神社。仁科五郎盛信と内藤家の祖藤原鎌足を祀る。
   天下一之桜。巨大な碑が二の丸で入園者を迎える。吉野山、弘前城址とともに日本三大名所だそうだ。
 
 『高遠閣』昭和初期に建てられた国指定有形文化財。公園の管理事務所、土産店、休憩所……    勘助曲輪。(今は駐車場)桜の季節にはここを含めて5カ所の駐車場はすべて満車だとか。
 
 高遠城大手門。払い下げられ高遠高校の正門と使われていた。城門の頃より切り詰められている。
   大手門跡から高遠の街並みを見下ろす。右側に杖突街道が、左手には三峰川が街を貫く。
 
 進徳館西棟。幕末に創建された藩学。藩士の子弟に、剣、槍、大砲などの武術、和漢洋の学問を教育した。孔子像らを祀る聖堂や教場等がある。   進徳館西棟背面。右手は生徒控所。これらの他に建物がいくつかあったが、廃校後取り壊された由。
 国指定史跡。
 
日蓮宗妙法山蓮華寺。この寺は勅命で国家鎮護を祈った寺で後水尾天皇の勅筆などが伝わっているそうだ。背後に七面明神を祀る七面堂がある。   絵島墓。七面堂の脇に改葬されている。正面に「信敬院妙立日大姉」、右側に「寛保一辛酉」左には「四月十日、妙経百部 繪島殿」とあるそうだ。
田山花袋は、明治の頃、逗留していた富士見高原から杖突峠を越えて高遠に来た。
「……高遠は好い町だ。城下町、衰えた城下町といふ気分が名残なくあたりに漂つてゐる。美しい女などが多い。『高遠は山裾の町ふるき町行きあふ子等の美しき町』かういふ歌を私は其処で詠んだ。
それに、ここに忘れても訪ねて見なければならないのは、その蓮華寺といふ寺に老女江島の墓のあることである。……その寺に其墓を訪ねて、『縁なれや百年の後ふる寺の中に見出でし小さきこの墓』かういふ歌を詠んだ。……」(田山花袋 山を越えて伊那へ)
 
「 明治になって、文人中此繪島の寺を紹介したのは、田山花袋氏であると聞いてゐる。然し大正何年かに北原白秋氏などが此地に遊んで繪島の墓を訪ねた時に此寺の前住職は、「繪島? そんな人は知らない」と答へた由である。それから七面堂のあたりをさがした処、右手の深い草むらのなかに「信敬院妙立日大姉」の石碑がころがつてゐたといふ事を聞かされた。
 七面堂の眺めは實にすばらしい。……その右手の草原を通つて小高いがけの上に青竹をめぐらし半坪程の土地をくぎつてそのなかにさゝやかな墓碑が建てられてあつた。……」(今井邦子 伊那紀行)
 
 浄土宗親縁山満光寺。間口四間、奥行二間半の科(しな))の木を使った鐘楼門。
   極楽の松。樹齢数百年の黒松は、武田信廉が兄信玄の遺命を守って盆栽を移植したとか。一目見ると極楽往生できるそうだ。私も極楽往生だ!
 
 臨済宗妙心寺派大宝山建福寺。武田氏の手厚い庇護を受け、武田勝頼の朱印状や勝頼の母諏訪御料人の位牌や墓がある。
武田滅亡の後は保科氏の菩提寺となる。
  右から武田勝頼母、保科正直、その子保科正光の墓。正光は保科正之の養父。その先には「風林火山」の旗がひらめいている。勝頼の母は「諏訪御寮人」、物語では「由布姫」「湖衣姫」などと名付けられる。 
 
 商家民俗資料館 池上家。桁行9間、梁間5間の大きな建物。町名主を務めた商家。   民家中村家。ここもずいぶん間口が広い。多分内部も見学もできるのだろうが、その時間もない。 
 
 JR高遠駅。「えっ、高遠に鉄道が!」「と勘違いした。駅と言っても路線バスの駅。観光案内所も兼ねていた。   高遠からの帰途。紅葉の先の遠くに中央アルプスが聳えていた。振り返ると南アルプスも見えるのだろうが。 

高遠文学碑散歩

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