土肥を歩く (西伊豆の旅3)

土肥は修善寺町、天城湯ヶ島町、中伊豆町と合併していまは伊豆市。海岸の僅かな平地に5000人ほどが暮らす。温泉があり、海水浴、海釣りやダイビング、ハイキングも楽しめる。温暖な気候で1月には土肥桜が咲き出すという。旅館は修善寺より多い27軒、民宿、ペンションを合わせると61軒も宿泊施設がある。若山牧水が沼津を逃げ出して一ヶ月も逗留したというのは宜なるかな。
 
修善寺温泉から136号線をバスに乗って土肥まで辿る。途中船原温泉の看板を横目に、1114mの船原トンネルで峠をくぐり抜け、曲がりくねった道を駆け下りる。50分で駿河湾に臨む土肥に着いた。 
 
松原公園。傍らを土肥山川が海に流れ込む。   「黄金の湯」温泉噴塔の両脇に無料の足湯。 
 
 ガム島のポンタン・ドス・アマンテス「恋人岬」と土肥の恋人岬が姉妹岬として提携15周年記念の像。両岬の友好の証として、更なる発展を祈念。両岬の強い結びつきのシンボル。    花登筺歌碑
土肥は湯と金の町 湯の中で砂金が キラキラと眩ゆいばかりの光粒を見せる  銭の花が白く清らかさを持つならば この花は 黄金の花粉であろう 
 
  若山牧水歌碑
 ひそまりてひさしく見ればとほ山の
     ひなたの冬木かぜさわぐらし 牧水
  ギネス認定の世界一の花時計。直径31m、長針12.5m、短針8.8m。約5千本の花々で彩る。
外周は裸足で歩く天然石の健康歩道。
 島木赤彦は大正14年(1925)1月、沼津から修禅寺、船原温泉で泊まり、山を越して1月28日に土肥へと辿った。一週間宿泊、友人と舟遊びに興じるなどして、病の身を癒やす。翌年3月、51歳で没す。
   わが臀の土を擦るばかりこの山の下りけはしさよ海に向かひて  
   櫟葉は多くは落ちず入海の礒岩かげに音のかそけき 
   富士の山裾曳くを見ればうちよする駿河の海も籠もる思ひあり
 
松原公園から駿河湾を望む。 この日は大波も立たず静かな海だった。赤彦はどこから船を出したのかな?     島木赤彦歌碑
 土肥の海漕出てゝ見れは白雲を
     天に懸けたり不二の高根は   赤彦
 
 大場美夜子句碑
  なめらかな海に裳を引く春の富士 美夜子
   美夜子の句碑は元富士見台にあったのをここに移転。ここからは富士山は見えそうもない。
 
 若山牧水像。土肥山川が土肥港に注ぎ込む河口の橋の袂に。旅姿だろう、帽子に羽織。    花のころに来馴れてよしと思へりし
  土肥に来て見つその梅の実を  牧水
土肥金山は幕府直轄の金鉱として採掘、佐渡の金山と並び称せられ、金銀は慶長小判の地金に使われた。ここで金約40t、銀400tが掘り出されたという。昭和45年(1970)に廃坑となり、のちに一部の坑道を利用してテーマパークとなる。少し離れた処にも、天正5年(1577)土肥で初めて開発れた「天正金山」もあり、公開されているそうだ。  
 
テーマパーク土肥金山。坑内巡りの他、砂金採りの体験の砂金館、金関係の展示の黄金館など。   総延長100kmの中400mの坑道が、往事の金山の様子の展示施設として公開されている。 
 
総延長100kmもある土肥金山の坑道。その中のわずか400mに、展示や人形などでかつての金山を紹介している。左は当時の土肥の町の様子、遊郭かな?
 
 金ぴかの鳥居の「大山祇尊」   「金鉱の露頭」プロでないと見分けられない。 
 
「水汲み」各種の坑内作業を電動人形で展示。 坑内の温泉で入浴中の女性像もあった。  
 
金鉱石。白色の石英鉱床の中の銀黒色の鉱脈が金鉱石と説明。 やっぱり私には見分けられない。   千両箱。左方で重さ体験。やっと持ち上がったが、担いで逃げられないな。22kgというのに。 
 
葵の御紋の千石船(弁財船)。掘り出した金銀は千石船で駿府の銀座に運ぶ。    ギネス認定、世界一の金塊。250kg。10月9日現在10億9千4百万。穴から手を入れて触れる。 
 
金銀鉱石。1tもの石から600gの金。大変だなあ。    ここは標高170m。津波の時は、先の鉄塔へ。 
もう一つの天正金山へも行くつもりだったが、昨夜の脚の痙攣を怖れて、少し早いが宿へ直行。  

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