筑波山麓を南から西へ辿る

 筑波山麓の小田城発掘について、現地説明会があるという新聞報道を見て、天気もいいしさして寒くもなし、日本史で学習した北畠親房のゆかりの地で、前々から一度行ってみたいと思っていたので、ひとりで出かけてみました。

筑波山へ上る道路は、紅葉の最期を見届けようというのでしょうか、車の列がつながっていました。小田城の説明会のあと、筑波山に登らず、山麓を南から西へと辿ってみました。奈良時代から江戸時代までの歴史のいくつかに触れることができました。

鬼怒川を越え、映画「下妻物語」の舞台の下妻を過ぎると、目の前に筑波山がそびえ立っている。
この近くに、詩人横瀬夜雨の住居がある。足が悪くて外出もままならなかった夜雨は、担がれてこの筑波に登ったこともあるそうだ。

小貝川。源流は栃木県那須町。やがて利根川と合流。

昭和61(1986)年の夏、台風のための豪雨で、この辺りの堤防が決壊、多くの家屋や耕地が水没するという被害が出た。
筑波山の南東に連なる標高461mの「宝鏡山」。通称が小田山。

この山の南麓に小田城があった。この周辺には,大型の横穴式石室をもつ小田古墳群を始め、古墳時代から戦国時代に至るさまざまな時代の貴重な遺跡が点在しているそうだ。山の南麓で住みやすいところなんだろうか。
逆光で碑面の文字が読めないが、城址南端にある「神皇正統記起稿之地」と記した石碑。

神皇正統記は南北朝時代、南朝の後醍醐天皇に仕えた北畠親房が小田氏を頼ってこの地に来て、ここで南朝の正統性を示すために著した歴史書。やがて小田城が佐竹に滅ぼされる前、近くの関城、大宝城などを頼ったそうだ。
小田城は、12世紀末に八田知家によって築かれた。知家は常陸国の守護となり、4代時知に至り小田氏を名乗るようになる。
南北朝には幾たびかの戦乱に遭い、やがて戦国時代に佐竹氏に攻め落とされ、その後は佐竹の城代に守らせたが、慶長7年、佐竹氏が秋田に移ると廃城となった、そうだ。ここは本丸の隅の涼台という小高い処。
小田城は、本丸を中心に三重の塀と土塁に囲まれた平城で、約21ヘクタールに及ぶ。本丸部分の約2ヘクタール程を居館として出発し、居館から防御のための城郭へと転化した。
本丸と各郭は深い堀と高い土塁で囲まれ、重要な出入口には馬出しを設けて直接進入できないようにしてある。郭は堀によって隔てられ橋で結ばれている。
この日の現地説明会には、200人ほど集まっていた。
今年発掘したところには、立て看板が立てられ、往時の姿を説明している。
ここは畑だったそうで、1mほど掘り下げた処に、溝跡、建物礎石、掘立建物跡、焼けた壁土や炭化米が確認されたという。遠くの山は筑波山。この場所は倉庫跡。
本丸跡の隅に、大きな五輪の塔や、金網に囲まれた小さな塔が幾つもあった。どういういわれかは分からなかったが、ここは鐘楼台。その名の通り、昔鐘撞堂があったそうだ。
ここは発掘区域ではなく、昔のままの姿を残している。
出土したものが展示されていた。陶磁器片がほとんどを占めていた。

展示にはなかったが硯、石臼、漆器椀、銭など、それに鉄砲玉や焼けた壁土という戦争を物語るものも出土しているとのこと。
城を囲んでいた堀の跡は、あちこちに発掘しないでも確認できるところがたくさんありました。本丸を囲んで三重に取り巻いていたようだ。

写真の農道のように見えるのは、この城跡の中心を斜めに横切っていた、筑波鉄道の軌道敷。
小田城から3km程の小高い処にある「平沢官衙遺跡」
奈良、平安時代の筑波郡の役所跡。確認され大小様々な建物の数は53棟。そのうち3棟の校倉造が復元してある。
礎石や柱跡の丸太やでその位置を示している。
この日訪ねたのは私だけ?静かないいところだ。
校倉造の建物を支える丸柱は、手を回しても届かなかったから、多分、直径80cmぐらいかな。床下は私の背の高さ、160cmほど。
3棟とも窓は一つもないから、倉庫だったのだろう。物納の租庸調の物がおさめられていたのだろう。
椎尾山薬王院は、延暦元年開基の天台宗の寺院で、薬師堂の別当寺院。楼門、薬師堂、三重塔などがにある。

ここは標高が約200mで、気温の逆転現象によりもっとも冬の最低気温が高いため、暖地性のスダジイが良好な生育を示す。境内には大人が4、5人がかりでないと抱えきれない大木が何本もそびえている。
この辺りがみかん栽培の北限で、9軒の農家が観光みかん園を経営している。「筑波蜜柑」と称して、温州蜜柑より小振り。10月中旬から12月下旬までみかん狩りが楽しめる。入園料大人300円、小人200円で食べ放題!

長塚節の『土』にも「神官は小さな筑波蜜柑だの駄菓子だの……」と出てくるから、長塚節もこの蜜柑を食べたのだろう。
一軒のみかん園に300円で入ってみた。客は他には誰もいない。木の高さはせいぜい1間ぐらいで、採りやすい。
小粒だが甘みがあっておいしいので5つ食べた。
一袋1kg300円のお土産を買ったら柚子5個がおまけ。

蜜柑の他に柿狩りもやっているところもあるそうだ。
真壁城主真壁氏累代の墓。遍照院という小さなお寺の小高くて薄暗い処にあった。5輪の塔ではなくて3輪の塔のような物が30数基ある。真壁城のお殿様や家族もここに眠っているのだろう。

堂の前に散り敷いた銀杏の葉の見事な絨毯が印象的だった。
羽鳥天神塚。菅原道真は下野権少掾であった。その子・景行は常陸介として常陸に住みつき、延長四年に真壁町羽鳥に父の墳墓として天神塚を築いた。
その後、水海道市(現在常総市)の飯沼湖畔に浮かぶ島を奥都城と定め社殿を作って遺骨を移送した。これが日本3大天神の1つ「大生郷天満宮」だという。
『どっこい真壁の伝正寺』
城主真壁時幹公雪見の宴の折、下僕平四郎は木履を懐に入れ温めていたが、尻に敷いていたと誤解され、その木履で額を割られた。それより発奮、妙心寺にて僧となり、後、宋に渡って修行し、松島瑞巌寺を開く。法身国師の勅宣を賜る。法身が真壁に帰ると、時幹は非礼を詫び、この寺を建立寄進。この話はおばあちゃんの昔話で聞いていた。
浅野長政は隠居後真壁五万石で真壁に移り晩年を送った。伝正寺を菩提寺とし、子の長重とともにここに眠る。
長政(真壁)―長重(笠間)―長直(赤穂)―長矩(忠臣蔵の)。どこかから広島が分かれたのだろう、浅野本家最後の広島城主・浅野長勲夫妻の石像が、地元算出のみかげ石に刻んで建てられている。本堂は再建中で、かっての茅葺きの姿はない。
真壁城は真壁氏累代の平城で、面積は約9万9000uに及ぶ広大な城跡。平安時代末期から400年以上の真壁氏の本拠。主従関係にあった佐竹氏が出羽国秋田へと国替えとなり、真壁氏も角館へと移る。
新たな真壁城主には浅野長重が2万石で、次いで1万石で稲葉正勝が移封してきたが、真岡に移され、天領となり真壁城は廃された。
国指定史跡「真壁城」も発掘調査を進めており、この日現地説明会が開催された。今年の成果は、薬研堀、土塁、虎口、道路跡などが確認されたこどだそうだ。

城は4つの堀に囲まれ、5つの曲輪に分かれている。
手前は木橋、左後方は櫓、右後方は門跡と説明されていた。
筑波から加波山に続く山並みの途中の天目山、その麓に真壁城址がある。町並みから数メートル小高い処に位置する。堀や土塁もあちこちに現存しており、城の概略が把握しやすいようだ。

発掘調査が済むと、ここは歴史公園として整備されるそうだ・
18年度真壁城跡発掘調査から、想像復元図

この上の写真の場所の復元図。野研堀に木橋がかかり、
クランク状の坂道を上がると門がある。門の左右には土塀が巡らされ、その一角には櫓があったと推定される図

この時代の城は、どこも似たようなものだったのだろう。
真壁町(合併して今は桜川市)は石の町で、あちこちの道路端に、灯籠や墓石や石材が展示されている。石屋の数は三百数十軒だというから、驚きだ。筑波山系から切り出した花崗岩、掘り出した庭石にする「筑波石」が、石材業発展の土台となっていたのだろう。

今は輸入材が多いのかなあ?
真壁は江戸時代からこの地方の中心地として栄え、隆盛の商家が見世蔵や土蔵などを建てて今に伝えている。
そのうち48軒が国の登録有形文化財の指定を受けている。いずれも現役の店舗や住宅だ。
写真はその内の一つ、潮田家の見世蔵。明治末期の建物。嘗ては「関東の三越」といわれた呉服、雑貨商だったそうだ。
加波山神社。日本武尊が東征のおり、709mの加波山頂に国常立尊、伊邪那岐尊、伊邪那美尊を祀ったことが起源で、この他に山中に737柱もの神を祭っているンだそうだ。麓から90分かかるというので、登頂は断念。写真は山麓の拝殿だそうだ。ここは加波山事件の舞台。自由民権運動の弾圧に対して青年民権家たちが加波山で決起したが、鎮圧され、自由党も解散となった。
雨引観音(雨引山楽法寺)は、推古、聖武、嵯峨天皇の勅願寺で、安産、子育ての寺として知られる。
刀傷のある薬医門は真壁城の大手門を移築したもの。
この日も高齢者よりも嬰児を抱いた若い夫婦の方が多く参詣に来ていた。今は安産子育てだけでなく、交通安全など、なんでもお賽銭次第だとか。
寺宝に光明皇后、嵯峨天皇の宸筆や弁慶の書もあるという。
他の人につられて雨引観音の裏山の細い路を登って行ったら、そこは水子供養の小さな地蔵の行列。若い男女が何組もいて、爺さんには場違いと思って早々下山。

多分加波山の方だろうか、どこの山か分からないが、遠くの山並みが一望できてた。

気の早い梅が咲いていた。
大和村(現桜川市)后神社。后って?
ここに居を構えていた豪族平真樹の娘「君の御前」は豊田郡国生に住む平将門に嫁す。
平家一門の幾たびかの争乱の末、将門の叔父平良兼によって、君の御前とその子は斬殺された。

御神体は平安時代五衣垂髪の女人木像。
関城跡 関城町(現筑西市)
三方を大宝沼に囲まれた堅固な城。南北朝の争乱では、城主関宗祐は南朝方に与して、小田城の開城前には北畠親房を迎えた。「神皇正統記」に筆を加えて完成したのはここ。

関城址に、関城と運命を共にして城主関宗祐、宗政父子の墓があった。 関父子の墓の傍らに、北朝方として関城攻撃加わっていて、戦死した結城直朝の墓もある。
遠くの筑波、元の大宝沼、そしてなにやら右に見えるのは坑道入り口。

北朝の高師冬は攻めあぐんで、坑道を掘って攻め入ろうとしたが、地盤が軟弱で崩落して失敗したあと。
農家の周りなどに、堀跡や土塁が各地にまだ残っている。
坑道はどこまで続いているのか、危険につき立ち入り禁止。
高師冬軍の坑道作戦に対抗して、城方も坑道を掘ったそうだが、その跡は確認できなかった。

双方とも坑道作戦は失敗したが、関城は陥落、城主は討ち死に、親房は大宝城に遁れた。
関城の土塁の遺構。高さ数メートルもあるだろうか。民家の塀に囲まれた中にも、堀跡が歴然と残っていた。
また、近くには「大将山公園」がある。ここは落城寸前に守永親王を奥州宇津峰城に送るために、関城の将兵が送別の宴を開いたところと伝えられる。
下妻市の大宝城址。三方を大宝沼にかこまれた要害だった。関城と共に南朝方に組したので、1343年に落城し、城主下妻政泰は討ち死にした。城址は小学校と神社の敷地となっている。

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