筑波山の遅い秋 1
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西からの筑波山遠景。関東平野に突き出して聳える。長塚節や横瀬夜雨が眺めた筑波。 | 左手前が男体山(871m)と右が女体山(877m) その間が御幸ヶ原(800)アンテナなどが見える。 |
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筑波山を望みてをりをりによみける歌 長塚節 おくて田の稲刈るころゆ夕されば筑波の山のむらさきに見ゆ 夕さればむらさき匂ふ筑波嶺のしづくの田居に雁鳴き渡る 蜀黍の穂ぬれに見ゆる筑波嶺の棚引き渡る秋の白雲 |
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雲を吐く口つきしたり引蟇 一茶。 「おらが春」の真筆を模したという。 |
水掛ぼけ除地蔵。ぼけを水で流してくださるありがた~いお地蔵さん。 | ||
ここは民間駐車場。ナンバーを書き200円を投入 | 少し登るとガマ公園(?)に桜が寂しげに咲いて。 | ||
筑波梅林。4.5haの園内には,白梅・紅梅・緑がく梅などの約30種、3,000本程の梅が植えられており,早咲きのものは1月下旬に見頃となるものもあるとか。園内のいたる処に筑波石の巨岩が散在している。 | |||
梅林への道の反対側はがま公園(?)木立を利用した遊具なども見えた。冬桜が咲いていた。 | |||
連歌発祥之地。どうして甲斐ではなく、ここが発祥に地なの??酒折宮が発祥の地だと言ってるよ。 | 真言宗豊山派 筑波山大御堂。江戸時代ここの連歌の間で連歌の会が開かれていたそうだ。 | ||
倭建命が、甲斐に出でて、酒折宮にましましける時に歌ひたまはく 新治、筑波を過ぎて、幾夜か宿(ね)つる ここにその御火焼の老人(おきな)御歌を続ぎて かがなべて、夜には九夜、日には十日を。 (古事記) |
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藤田小四郎像。水戸藩の尊攘激派を中心とした藤田小四郎らの天狗党は、攘夷延期を不満として1864年(元治元)筑波山に挙兵。しかし幕府の追討を受けて敗走。一橋慶喜をたよって上洛の途中金沢藩に降伏。敦賀の倉庫に幽閉の後、351人が斬首。藤田小四郎24歳 。 | |||
筑波山神社神橋。 | 筑波山神社随神門 | ||
筑波山神社は筑波山を神体山として祀る神社で、西峰頂上の男体山本殿、東峰頂上の女体山本殿、それに両本殿を遥拝する山腹の拝殿からなる。拝殿の標高以上の土地を社地とする。万葉集に 筑波山を詠み込んだ歌がいくつも収録されており、境内や登山道の路傍などに多くのそれらの歌碑が建つ。 | |||
橘の下吹く風の香ぐはしき 筑波の山を恋ひずあらめかも 古部広方 |
筑波嶺は女男の神山竝び立ち 空をかぎりて乳房型の山 中村正爾 |
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筑波の岳に登りて 鶏が鳴く東の国に高山はさわにあれども 二神の貴き山の並み立ちの見が欲し山と…… |
筑波岳に登りて 反歌 筑波嶺を 外のみ見つつありかねて 雪消の道をなづみ来るかも 丹比真国人 |
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光誉上人五輪塔。筑波山別当知足院に入山。大坂の陣で家康の陣中祈願や怪我人の傷を膏薬で手当。上人の陣中膏蝦蟇の油が筑波名物に。 | 楠正勝の墓。正勝は南朝の忠臣楠木正成の孫で虚無僧の祖とか。すぐ近くにあった普化宗古通寺に来たという。古通寺は昭和の山津波で流失。 | ||
筑波山神社拝殿。 | 境内の大銀杏。待っていてくれたのかな? | ||
神社脇から山頂駅まで標高差495mの1634mを8分で結ぶ。登るに従い樹相の変化を楽しむ。 | 山頂駅のある御幸ヶ原。男体山女体山の二つの峰の間に位置する 。 | ||
……頂上には、男体女体の二尖峯相並びて突起し、南に離れて連歌岳あり、東につらなりて宝珠岳あり。なほ女体よりの下り路に、北斗石、紫雲石、高天原、側面大黒石、背面大黒石、出船入船などの奇巌、峯上に突起す。 |
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男体山への登り口。この先、岩の嶮し道へと繋がる。 | 男体山本山頂(871m) 男体山本殿。祭神:筑波男大神(伊弉諾尊)イザナギノミコト。 | ||
富士山やスカイツリーも見えるそうだが? | ここより高い女体山を見下ろす? | ||
男体山山頂の 旧筑波山測候所。錆びた鉄柵、剥がれた門柱のタイル……、廃墟? いえ→ | 最新の機器を備えた筑波大の筑波山気象観測ステーションとして活躍中。 | ||
1902年山階宮菊麿王が自費で山階宮筑波山測候所 を開設、後に国に寄贈、1928年に現在の建物に改築。一時は30人も常駐するもやがて無人化。2001年閉鎖。2006年筑波大が継承する。 |