佃島からお台場へ ~佃島・石川島 

本能寺の変の際、家康の一行はわずかな手勢で堺にいた。急ぎ三河への脱出のため兵庫の海辺へと急いだが、その際佃村の漁民が船で脱出を助けた。その縁で、慶長8年に佃村の漁民33名を江戸に呼び、石川島に近い島を居住地として与え、故郷の佃村にちなみ佃島と名付けた。白魚などの漁をしながら江戸城内の台所をまかなうことで漁業権を与えられた。(天安本店資料抜粋)
 
幕末の略図。灯台、佃渡し、住吉神社も読める。    両側に隅田川、周辺とは幾つもの橋で繋がる。
その土地の本来の名は佃町というのだが、たいていの者が「あひる」と呼んでいた。そこは深川の南の端で、海との間に広く、葦原や湿地がひろがっており、晴れた日には海の向こうに上総から安房へかけての山や丘を眺めることができた。…(「つゆのひぬま」山本周五郎)  
 
 地下鉄を降りると、おや、高層ビルと車の列。    隅田川(晴海運河)の対岸は越中島辺りのビル群
 
海水館の碑。ここは明治29年(1896)に完成した新佃島埋立地、房総の山々を望む閑静な景勝地。割烹旅館兼下宿の海水館があり、島崎藤村が明治40年から41年にかけて止宿して「春」を朝日新聞に連載するなど、小山内薫、荒畑寒村、木下杢太郎、佐藤惣之助、竹久夢二、日夏耿之助、三木露風らが創作活動を行っていた。  右の絵は島崎柳烏画「東京名所月島の月」(説明板より)
 
 相生橋。晴海運河に架かり佃島と越中島を繋ぐ。明治36年月島に水道を引く木橋が初め。昭和2年に現在の橋に建てかえ。長さ1922m。勝鬨橋ができるまでは、佃・月島を陸上に繋ぐ唯一の橋だったそうだ。   日本初民営洋式造船所発祥の地。幕末水戸藩が造船所を創設、蒸気軍艦を次々建造、後民営となり軍艦や商船を建造、石川島重工業となり重機類の工場となるが移転し記念館を残すのみ。跡地は高層マンション群大川端リバーシティ21が建つ。
 
石川島公園から永代橋、その先に微かにスカイツリーを望む。隅田川は左右に分流する。    中央大橋。 長さ 210m。 1993年竣工。セーヌ川と友好河川の提携で、フランスの会社に設計依頼。
 
 石川島公園の北端のパリ広場。平成9(1997)年「フランスにおける日本年」で、パリに「東京広場」が造られたので、「日本におけるフランス年」である平成11(1999)年に「パリ広場」が造られた。「友情から未来へ」という子供達が手をつないだモニュメント、その下には子供達が描いたたくさんの絵。
 
作業船だろうか、隅田川を遡上。 浅草、浜離宮、日の出桟橋を結ぶ遊覧船などもここを「上り下り」   花盛りのネムノキと色づいてきた実を茂らせる枇杷の樹があった。一瞬「佃島に…?」と思った。
石川島人足寄場は寛政2(1790)年、老中松平忠信が火付盗賊改長谷川平蔵の建議をいれ設置。300~400人を収容していた。明治3年に廃止。  
 
石川島灯台。慶応2年(1866)、石川島人足寄場奉行清水純畸が、油絞りの益金を割き、人足の手で寄場南端に常夜灯を築く。六角二層の堂々たる灯台だった。その灯台を模しその地に公衆トイレを建つ。 
このところ、平蔵は多忙を極めている。火付盗賊改方と兼任で、石川島に設けられた人足寄場の取扱をするようになったからである。……寄場には、三棟の建物のほか浴場・病室があり、ここへ収容された無宿者は約三カ年の間様々な職業をならいおぼえ、正業につき得るとなるや、これを釈放して世に出す。……おろくに出会ったのも、人足寄場からの帰途においてであった。…… (「鬼平犯科帳-むかしの女」池波正太郎)  
……佃島に接した南側に門があり厳重な囲柵が張りめぐらされてあった。門を入ると右側に見張番所が存り、広い中庭をかこんで左に大きな瓦屋根の役所があり、東側に人足小屋の低い杉皮の屋根が長くならんでいた。……(「無宿人別帳―海嘯」松本清張)
 
 富嶽三十六景 武陽佃島 葛飾北斎
小島が佃島かな?。多くの舟が漁をしているが…
  佃の小港、高層ビル群に囲まれて一層小さくなって見えるが、漁業は今なお続いているようだ。
 
住吉神社の水盤舎。欅材の切妻造り。明治2年(1869)に再建。水盤には天保12年(1841)とある。   欄間には石川島灯台、佃の渡し、帆を張った回船、磯の風景など佃の風景が刻まれている。 
住吉神社は、摂津国佃村の漁民が江戸へ移住した後、正保3年(1646)に現在地に創建。佃の鎮守。佃島の鎮護のみならず水運関係の人びとから厚い信仰を受けていた。(区の説明板から)  
 
 鳥居。扁額は陶器製。書は有栖川幟仁親王。   拝殿。住吉大社に倣い切り妻に堅魚木を戴く。 
佃島には住吉さまがあって、毎年この夏祭りがたいへんに賑い、島国なので気がそろっていて、よくできている。この祭りへ行く人は渡し船で渡って、踊り屋台を見たり、地走りが出たり、飾り物をいろいろ見物して、深川八幡の暮れ六つの鐘を聞いて、みんな船場に駆けつける。…「落語百選ー佃祭」麻生芳伸 ) 
 
 鰹塚。鰹節類卸業者が感謝慰霊、豊漁を願う。   おや、なつかしや境内の片隅に二宮金次郎像。 
 銀座から築地へ歩き、渡船に乗り、佃島へ渡ることが、よくあった。この渡船は終夜運転だから、帰れなくなる心配はない。佃島は一間ぐらいの暗くて細い道の両側に「佃茂」だの「佃一」だのという家が並び、佃煮屋かも知れないが、漁村の感じで、渡船を降りると、突然遠い旅に来たような気持になる。とても川向うが銀座だとは思われぬ。(「日本文化私観」 坂口安吾) 
 
天保8年創業の「天安」間口2間、店内も3坪ほど、様々な種類の量り売りの佃煮が並んで、年配のご婦人が三人、応対や包装などで働いていた。.作業場は奥の方に方にあるのか、佃煮のにおいが漂う。六種類の詰め合わせ3000円を買い求めた。この一画は、昔からの佃島で、細い路地を挟んで家が建て込んで、ちょっとむかしの雰囲気もある。店の前は隅田川だが,高い堤防で川面は見えない。  
 
 佃島渡船。碑の背後を登ると船着き場がある。
佃大橋が完成する までは1日最大70往復もの渡し船が運航されていたそうだ。
   渡し場には今も桟橋があって、一艘の船が停泊していた。屋形船。隅田川お台場クルーズを運行。船着き場は今も健在なんだ。
一日のはげしい勞働につかれて、機械が吐くやうな、重つくるしい煙りが、石川島の工場の烟突から立昇つてゐる。佃から出た渡船には、職工が多く乘つてゐる。築地の方はうから出たのには、佃島へかへる魚賣りが多い。よぼよぼしたお爺さんの蜆賣と、十二三の腕白が隣りあつて、笊と笊をならべ、天秤棒を組あはせてゐた……(「佃のわたし」 長谷川時雨)  
 
佃大橋。昭和39年(1964)に建設。隅田川を挟んで明石町と佃を結ぶ。橋の袂に砲台跡があるそうだが、地元の何人か聞いたがどなたもご存じない。    雪降れば佃は古き江戸の島 秀司        劇作家北條秀司はこの渡しを舞台に新派の花柳章太郎のために『佃の渡し』を書き下ろす。

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