牛久へ河童探しに

かねがね尋ねたいと思いながら、同じ県内でも東と西。やっと実現できた牛久探訪。資料にはあるはずのレンタサイクルがないとのこと、やむなく徒歩での探訪となった。やれやれ!
 
上野から常磐線を北上、牛久に向かう。車窓に見る景色はほとんど記憶にない景色だ。50年ぐらい前には、何回も通った路線だが、50年の歳月に沿線の景色もすっかり変わって、通り過ぎる街もどこだか見当もつかない。   水戸街道の町並みを歩く。でも街道の面影は今はないようだ。水戸の黄門様もここを歩いたのかなあ、いやいや御駕籠。
街道を少し離れたところに国道が通り、ここは静かな町並みだ。行き交う人影もまばら店舗もポツポツ。
 
曹洞宗瑞雲山正源寺。ここの井戸が旅人の乾きを癒やしたとか。本堂は山門より階段で降りる。   松戸宿本陣跡。水戸街道のほぼ中間に位置し、千住宿より8番目の宿駅。
 
明治17年明治天皇が近衛砲兵実弾演習天覧の際の行在所   芋銭河童碑道。各所に同じ碑が案内してくれる。河童だけ?。
 
街角の説明に「牛久城大手門跡」城はどっちにあった?   曹洞宗稲荷山得月院本堂。
 
小川芋銭墓。昭和13年12月17日没。享年70歳。   当院開基牛久城主由良国繁の母妙印尼の五輪塔
 
??子河童碑。はじめの二字が読めない。芋銭の別号かな?   河童碑。左端に座す河童。右に「誰識古人画龍心」と刻む。
 
 道標を建てる際石碑にと芋銭が寄付。名の代わりに刻め。    雲魚亭の前面の木立の間から牛久沼がのぞいていた。
 
朝夕に芋銭したしみながめたる沼の向ふの富士美しき 与一    雲魚亭。小川芋銭のアトリエ兼居室。土日祝日のみ公開
 
牛久沼河童松。むかし村人が河童に沼に引き込まれて死ぬこと度々。昼寝をしている河童を見附て松に縛り付けた。河童が泣いて詫びるので悪事をしないと約束するので許してやった。以後、水死者がなくなったって。結構結構!  
 犬田卯氏とは震災の頃、東京で逢つた。たしか私が、「金の星」と云ふ雑誌をやつて居た頃であつた。芋銭先生の話が出たら犬田氏は、「芋銭先生は知つて居ます。僕は金が無くなると行つては絵を貰つて来ます」
と微笑して居た。恰度新潮社から私の本が出版されるので、芋銭先生に表紙絵を描いて貰へるだらうかと話したら、貰へるかどうか解らないが、頼んでみたらとのことになつて、私から先生へ手紙を出したら、どう云ふ本の表紙か内容を見せてくれとのことであつたが、もう印刷に廻つて居て、取よせることも出来なかつたので、その頃銚子に居た先生の処へ行つてその話をしながら泊つて来た。先生は「いくらでも描きませう」と言つて、直ぐ次の日に送つてくれた。 野口雨情「小川芋銭先生と私」
 
抱撲舎。作家の犬田卯、住江すみ夫妻の旧居。 「抱撲」とは老子の言葉。 卯の謂わば師の芋銭が「素直な心を持ち続けよ」と
 
 牛久沼。面積1.49km2、平均水深1m。 寒そうに鳥のうきけり牛久沼 子規    五月雨や月夜に似たり沼明かり 芋銭 
 
大仏に向かう途上「牛久城址」の表示。牛久城は、岡見氏によって天文後半に築造。三方を沼に囲まれ、東国の城の特徴を持ち、本丸には石垣や天守はない。のち、 秀吉は由良国繁を牛久城主としたが、関ヶ原の戦い後、廃城になったよし。
細い道を登ると堀跡らしき窪地が。どこまで城址なのか。台地全体?城中町全域か?

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