大和路桜探訪 2 雨の吉野千本桜
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吉野山の山麓を流れる吉野川。和歌山県に入り紀ノ川となり紀淡海峡に注ぐ。川を渡って吉野山に登る。朝から雨降り。予報では早朝だけの筈だがやみそうもない。 | 山道を登り、途中の竹林院からシャトルバスに乗り換え、奥千本口まで登る。尾根の北側なのか、桜は見えず鬱蒼とした杉木立。 | ||
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金峰神社。吉野山の地主神金山毘古命を祭る。 ここも世界遺産。奥千本口から、きつい坂道をやっと上がって一休み。雨は相変わらずだ。 |
「木の葉散桜は軽し檜木笠 芭蕉桃青」 「よしのゝ花に三日とゞまりて、曙、黄昏のけしきにむかひ、有明の月の哀なるさまなど心にせまり……」(笈の小文) |
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義経隠れ堂。隠れていた源義経が追っ手に囲まれ、屋根を蹴破って逃げたといわれがある。金峰神社のちょっと下。 | この奥に西行が3年隠棲した西行庵や苔清水がある。雨と霧で見通しが悪く、道も険しいというのでしぶしぶ断念。 | ||
吉野山は、大峰山を経て熊野三山へ続く山岳霊場。修行道大峯奥駈道で、何回修業したとの記念碑があちこちに。 | 確かに桜は咲いているのだが……。遠くの方はすっかり霞んで何も見えぬ。 | ||
吉野 |
水分神社本殿。現在の社殿は慶長10年に秀頼によって創建された。正面に三つの破風があり、中央は春日造、左右は流造の三殿を横に繋ぐ珍しい形。 | ||
水分神社。本殿は拝殿と庭園を隔てて仰ぎ見る。 雨に煙る檜皮葺の社殿や桜は格別の趣がある。 |
このあたりから上千本というのかな? 桜は確かに咲いているのだが。 | ||
吉野山の桜は200種あるが、ほとんどはヤマザクラ(別名シロヤマザクラ)。主に本州中部以南に自生し、最も代表的な種類で古くから詩歌にも詠まれ親しまれてきた。拡大 | 長寿な種であり、なかには樹齢500年を越えるものが見られる。同一地域でも様々な変異があり、開花と同時に出る若葉も赤紫色、緑色などいろいろな色のものがある。 | ||
吉野の桜は、奥千本、上千本、中千本、下千本と標高差によって桜前線がだんだん駆け上がっていく。まさか「千×4」の4千本ではなく、総数で3万本といわれるそうだ。 | 吉水院宗信法印墓。後醍醐天皇が京都から吉野へ潜行された時に、吉野一山の大衆を説いて、天皇を吉水院へ迎えた豪僧。 | ||
竹林院。聖徳太子が吉野山に来たとき椿山寺を建て、その後一時廃寺となるなど幾多の変遷を経て修験道系統の単立寺院となる。 | 竹林院群芳園。秀吉の吉野観桜の際千利休が作り、細川幽斎の改修したという。大和三庭園の一つとされる回遊式庭園。 | ||
竹林院本堂(護摩堂) 見事なこの名園は、お寺の庭園かと思ったら、「竹林院群芳園」という政府登録国際観光旅館のだって! |
「三吉野の竹林院の静かなり 花なき後もここに在らばや」与謝野 寛 「何山の鳥竹林院の林泉を 楽しむ朝となりにけるかな」 与謝野晶子 |
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庭園は武家書院好みで石組は室町時代の作風を伝え、池には七五三の作庭の手法で島が配置されている由。 | しだれ桜も花盛りで歓迎してくれた。 |
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西行 吉野山 こぞのしをりの 道かへて まだ見ぬかたの 花をたずねむ |
藤原雅経 み吉野の山の秋風さよふけて |
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喜蔵院。昼食はここの精進料理。吉野で唯一のユースホステル指定。訪れたとき、法螺貝の音が響き渡っていた。 | 喜蔵院は大峰山の護持院。本山修験宗別格本山。役行者霊蹟札所。山号は吉野山。開山は智証大師円珍。 | ||
喜蔵院の眺望。坊さんの話を聞きながらの精進料理もいいが、ゆったり眺める眼下の上か中かの千本は格別だ。 | 喜蔵院の眺望。はるか彼方に如意輪寺の塔堂が桜の中に埋もれて見えた。 | ||
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浄土宗 塔尾山 椿花院 如意輪寺本堂。延喜年間の草創、後醍醐天皇が吉野に行宮を定めると勅願所となった。 | 第96代後醍醐天皇 御霊殿。波乱の生涯を送り失意のうちに没したのだろう。 | ||
後醍醐天皇陵。如意輪寺の背後に位置する。尊氏がいる京都の空を睨み付けたまま崩御。天皇陵で唯一北向。 | 長慶天皇皇子世泰親王墓。後醍醐天皇陵より少し下がった処にある。陵ではなく「墓」とのこと。 | ||
御廟年経て忍は何を志のふ草 芭蕉 ……山を登り坂を下るに、秋の日既斜になれば、名ある處々見残して、先後醍醐帝の御陵を拝む。(のざらし紀行) |
正行と百四十三名の家来の髻塚。四条畷への出陣に際して髻を奉納。「かえらじとかねておもへば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」と辞世の歌を堂の扉に鏃で書き残す。 | ||
桜井の訣別 「青葉しげれる桜井の 里のわたりの夕まぐれ ……」 「正成涙を打ち払い 我子正行呼び寄せて…… 汝はここまで来つれどもとくとく帰れ 故郷へ」 |
至情塚。後村上天皇の女官弁内侍を楠木正行へ給わらんとしたが、正行は戦に出る身を考え断った。その翌年、四条畷に戦死したのを内待は悲しみ髪を切り、尼となって正行の菩提を弔った。その黒髪の一部をここに埋めたという。 | ||
如意輪寺多宝塔からの中千本の眺望。 |
如意輪寺から中千本の眺望。斜面の足下には水仙が咲きそろう。3万本が植えられているそうだ。 | ||
両側に並ぶ土産物屋や飲食店。この日は歩行者天国のためか人をかき分けて進むような混雑。桜、吉野葛、杉などを用いた土産や飲食物、奈良漬、柿葉寿司、胃腸薬の陀羅尼助丸なども眼についた。 | 吉水神社。元は吉水院という役行者の創立した修験宗の僧坊。明治から後醍醐天皇、楠正成、宗信法印を合祀。 1336年京より遁れた後醍醐天皇が吉水院宗信の援護の下にここを南朝の行宮とした。 |
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吉水神社本殿(右)と書院(左)その間の影に楠公祠。 | 庭園から書院を望む。 | ||
後醍醐天皇玉座(豊太閤花見の居間)。京より潜行してここを仮玉座と定め南北朝の始めとなる。「花にねてよしや吉野の吉水の枕の下に石走る音」とここで詠んだという。 秀吉が花見の時に模様替えした典型的な桃山書院だが、御所造りの特色が残る由。正面の障壁画は狩野永徳の作 |
吉水神社書院。 「秀吉花見の本陣」秀吉は文禄3(1594)年ここに本陣をおいて、数日間滞在して盛大なる花見の宴を催し歌の会、お茶の会、お能の会を開いて豪遊したんだって。 「年月を心にかけし吉野山 花の盛りを今日見つるかな」 |
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社宝「義経遺品」吉水院書院は義経静御前が隠れ住んでいた処でもある。「義経潜居間」があり、義経愛用の兜や鎧などのほか、後深草天皇宸筆、秀吉の金屏風、秀頼寄進の釜、永徳の屏風など多くの品が社宝として公開している。 | 後醍醐天皇御製 「花にねて よしや吉野の吉水の 枕の下に 石走る音」 |
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「吉水神社 見わしの いとよき所」木陰に見えるのは金峰山寺の蔵王堂の大伽藍。 | 吉水神社から中千本から上千本の桜を一望する。これだけの桜を植え続けた先人の苦労を偲ぶべきかな。 拡大 | ||
「金峯山寺仁王門」 入母屋造本瓦葺きの二重門。室町時代の康正2年(1456年)の再興。国宝。 | 金峯山寺本堂(蔵王堂)。修験道の開祖の役行者が開創したと伝え、蔵王権現を本尊とする寺院。東大寺大仏殿に次ぐ高さが約34mの木造の大建築。国宝。 | ||
良寛・吉野紀行の碑 「里へくだれバ日は西の山にいりぬ あやしの軒に立て一夜の宿をこふ そのよハ板敷の上にぬまてふものをしきて臥す 夜のものさへなければいとやすくねず よひのまハ翁の松をともして その火影にいとちゐさきかたくむ なにぞと問へば これなんよしののさとの花筺といふ 蔵王権現の桜のちるをおしみて ひろひて盛りたまふ つとにせむよしのの里の花がたみ」 |
南朝四帝歌碑 一本の角柱の四面それぞれに刻む。 袖返す天津乙女も思ひ出づや吉野の宮の昔語りを 後醍醐天皇 吉野山花も時えて咲きにけり都の土産に今やかざさん 後村上天皇 わが宿と頼まずながら吉野山はなになれぬる春もいくとせ 長慶天皇 見しままに花も咲きぬと都にていつか吉野の春を聞かまし 後亀山天皇 |
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吉野朝皇居跡。足利幕府により京都の花山院に幽閉されていた後醍醐天皇は、吉野に脱出、始め吉水院、次に蔵王堂の西のこの場所の実城寺を皇居とし、寺名を金輪王寺と改める。以後56年の南朝皇居となる。 | 蔵王堂から吉野朝皇居跡の南朝妙法殿を見下ろす。南朝妙法殿は南朝四帝と南北朝時代以後の戦乱によって死亡した多くの霊を祀る。木造釈迦如来座像を本尊とする八角三重塔。 | ||
このあたりは下千本かな? 嬉しいことにまだ花盛り。 | 花さかり山は日比の朝ほらけ 芭蕉翁 下千本嵐山下 | ||
雨は上がって何千本もの桜を十分に堪能できた。 | 抹茶にくず餅で小休止、あとはバスで宿へご帰還。 | ||
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