湯島界隈から東大へ1 湯島聖堂から妻恋神社 

東大へ行く前に、その名はよく耳にしながら、一度も訪ねたことなのない、湯島聖堂、神田明神、そして湯島天神を尋ねた。御茶ノ水駅を降りて、神田川添いに湯島聖堂に向かった。東京医科歯科大の東隣に聖堂がある。この大学の敷地はかつて昌平坂学問所があった所だそうだ。
 
 お茶の水駅を降りると、神田川河畔の木々も色づいてきた。   聖橋。昭和2年7月に完成したアーチ橋。湯島聖堂と川向こうのニコライ堂にちなむそうだ。
 
相生坂。湯島聖堂の石垣と塀が伸びる。道路の右側を神田川が流れる。    神田川、聖堂。広重画(部分)聖堂の塀も描かれている。
徳川綱吉は儒学の振興を図るため、元禄3年(1690)上野忍岡の林家私邸の廟殿と家塾を湯島の地に移して湯島聖堂を創建。後、幕府直轄の「昌平坂学問所」を開設した。明治になり、学問所は大学と改称されて存続したが、その後博物館、師範学校が設置され、近代教育発祥の地となる。関東大震災に罹災し、一部を除き焼亡、昭和になって原型に復す。  
現在も、論語素読、孟子講義、唐詩鑑賞、書道など各種の文化講座が開かれている。
 
仰高門。  門を入ると木々の茂る道が続く。訪れる人影もない静かな場所だ。 
 
 「楷」孔子の墓に植えられている名木。
枝や葉が整然としているので楷書の語源とか。
   孔子像。4.57m、約1.5トンの世界最大の孔子像は台北から寄贈。まさに「仰高」すべき大きさ。
 
 杏壇門を見上げる。回りには楷の木が何本も植えられている。ここで一組の夫婦に出会った。   大成殿(孔子廟)孔子を中心に、孟子、顔子、曾子、子思の四賢人の像を祀る由。
 
 「はくしょう」(松科)葉は色淡く幹は鱗片状。   古跡昌平坂。聖堂の右側。学問所は聖堂の左
 
明神男坂。この坂の下辺りの長屋に、御用聞きの銭形平次が住んでいたんだ。     神田明神随神門。欄間に祭神の大国主命、四方に青龍などの四神を描く。
神田明神(神田神社)は1300年近くの歴史をもつ。江戸時代には、「江戸総鎮守」として江戸のすべてを守護。今もなお、東京―神田、日本橋、秋葉原、大手町・丸の内など108の町々の総氏神様と祀られる。 一ノ宮に大己貴命(大黒)、二ノ宮に少彦名命(恵比寿)、三ノ宮に平将門命の3柱を祀る。 当社で行われる神田祭は山王祭、深川祭と並んで江戸三大祭の一つ。
 
 さざれ石。伊吹山麓産。石灰質角礫岩。
平林寺にもあったし、どこだか忘れたが別にも。
   獅子山。江戸時代に関東三大獅子の一つとして奉献。こんな台地の上から瀧が流れる。
 
御神殿。昭和9年再建。鉄骨鉄筋コンクリート・権現造総朱漆塗の社殿。     鳳凰殿。神札授与所、休憩所、参拝者控え室などがある。神殿よりも立派かな?
 
 野村胡堂「銭形平次捕り物控」の主人公銭形平次の碑。石造の寛永通宝の中に建つ。その右には八五郎の碑も。   荷田春満が、江戸に初めて国学の教場を開いたのが神田神社社家の芝崎邸内。今東光の撰文でその詳細を記す。 
 
力石。力試しに用いた大石。文政五年の文字。     淸水坂。湯島聖堂から湯島天神へ一直線。
 
妻恋神社。日本武尊が湯島に滞在した時、身を捨てて尊を救った后の弟橘姫を思う気持ちを郷民が哀れみ尊と后を祭り、後に稲荷明神も祭る。眼の前で熱心に参拝する青年の願いは何かなあ。
 妻恋神社に祭られているご神体の一つは、弟橘媛命である。弟橘嬢は日本式尊の妃で、尊の東征に従い、荒れ狂う海に身を投じて尊の無事を願った。ぞのはかなさが我が身に及ばぬよう、人々は門前を通らなかった。ことに婚礼の行列は、避けて通ったというのである。弟橘媛のご神体を今の台地に移し、稲荷大明神と合祭したあと、宝性院門前ばかりが嫌われたというのもおかしな話だが、今のお町は、その言い伝えが… 北原亜以子「妻恋坂」  
 
 妻恋坂。この辺りは縦横に幾つもの坂がある。   実盛坂。この辺に斉藤実盛の屋敷があった由 

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