逗子文学散歩

電車の終着地逗子は、文人ゆかりの地と聞いて文学散歩としゃれ込んだはいいが、訪ねる先がなかなか見つからず、聞いたり調べりの苦闘。なんとか一通りは訪ね歩いたが、帰宅後、ファイル操作を間違えて全部消去。同行者の少しばかり撮った写真を借りて、ただ行ったという証しを残しただけ。
 
 逗子市浄化センターの敷地内。その先は海。なぜここにあるのかわからないが、ここに国木田独歩の文学碑→   逗子の砂やま草かれて 夕日さびしく残るなり 沖の片帆の影ながく 小坪の浦はほどちかし たき火より
 
 蘆花記念公園。逗子は明治以降、名士の別荘地として脚光を浴びた処でその名残の庭園や建物が残されている。
 
「徳冨蘆花 文学碑 自然と人生 不如帰」と刻む。     斜面の細い小道が蘆花の散歩道らしい。この先に建物が
蘆花は公園に近い川沿いの旅館「柳屋」に四年ほど滞在し、「不如帰」「自然と人生」を執筆。この辺は蘆花の散歩コースだったのだろう。その柳家の跡地に「蘆花独步ゆかりの地」という碑があるそうだが。独步もこの宿で新婚生活を送ったそうだ。 
「相州逗子の柳屋という家の間を借りて住んでいたころ、…婦人がさる悲酸の事実譚を話し出された。…初耳の「浪子」の話である。…」「第百版不如帰の巻首に
 田越川を国道134号線が富士見橋を越えて伸びている。直ぐ下は海水浴場のようだ。金色に輝く碑が見えた。石原慎太郎の「太陽の季節の碑。岡本太郎の「若い太陽」のオブジエェ「太陽の季節 ここに始まる」と慎太郎の文字が刻まれているそうだ。 
 
逗子開成学園。逗子開成中学校の後身。玄関前。 玄関内にも同じ詩の額が掲げられていた。    真白き富士の嶺 翠の江の島 仰ぎ見るも今は涙 帰らぬ十二の雄々しきみ霊に 捧げまつらむ 胸と心
明治43年1月逗子開成中学校のボートが遭難。乗員12名全員が死亡する事件をもとに三角錫子が作詞。曲は米国のガーデン。  
 
海で楽しむ若者達。もっと沢山の人たちが海上に広がっていた   岬の突端に何かが。撮影者自身もなんだかわからないとは!
 
 蘆花之故地碑。ここは海岸と山腹の間の小さな公園。碑の背後に蘆花の略歴を記す。 山腹に不動祠   さくら貝の歌碑。うるわしきさくら貝ひとつ去りゆけるきみに捧げん。 土屋花情   ラジオ歌謡として放送される。
不動祠の下まで行きて、浪子は岩を払うて坐ざしぬ。この春良人と共に坐したるもこの岩なりき。その時は春晴うらうらと、浅碧の空に雲なく、海は鏡よりも光りき。今は秋陰暗として、空に異形の雲満ち、海はわが坐す岩の下まで満々とたたえて、そのすごきまで黯き面を点破する一帆の影だに見えず…。  (不如帰)
 
高野山真言宗白瀧山高養寺。浪切不動、波子不動とも。脇に小さな流れが。
武男は浪子をたすけ引きて、山の根の岩を伝える一条の細逕を、しばしば立ちどまりては憩いこいつつ、一丁ちょうあまり行きて、しゃらしゃら滝の下にいたりつ。滝の横手に小さき不動堂あり。松五六本、ひょろひょろと崖がけより秀いでて……(不如帰)
 
 不動堂から見下ろす岩場に石碑。「不如帰」と大書。書は蘆花の兄徳富蘇峰。  
 泉鏡花も逗子で静養。あの「婦系図」もこの地で執筆した由。文学碑も二つあるとか。 計画も杜撰、事前の下調べも不備、それに写真のデータを無くすとは、なんたる旅だ。

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