土津神社・野口英世記念館 会津に遅い春を尋ねる1
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車窓から見える山々は芽吹き始めたばかり、畑仕事もこれからだけど、所々に桜や辛夷が咲いているのを見かける。会津にも遅いながらも春が訪れているんだ。 | |||
土津神社の白い鳥居。 珍しいが、曰わくは? | 拝殿。屋根には三つ葉葵の家紋を戴く。 | ||
土津神社は会津藩祖保科正之を祀る。延宝3年(1676)に造営。戊辰戦争で焼失、明治13年再建。 正之は徳川秀忠の次男。信州高遠藩保坂正光の養子となり、やがて高遠3万石を継ぐ。山形20万石から会津23万石の藩主となる。甥家綱を補佐し、明暦大火の際、幕府の米倉を庶民に開放、延焼を防ぐ幹線道路の拡幅、橋を掛けず溺死者を出した隅田川に両国橋を、玉川上水開削、藩主の末期養子の廃止や殉死の禁止など、武断政治から文治政治へと転換。會津藩主として、家臣団の改革、飢饉対策の社倉制度、産子殺しの禁止、検地により減税、秤量の統一、産業の育成振興、藩校日新館の前身の稽古堂……そして『会津藩家訓十五箇条』 水戸の光圀、山形の鷹山と並ぶ三大名君と称される。 |
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土津神社霊神之碑。瑞獣の亀の上に山崎闇斎撰文の保坂正之の履歴を刻む。碑の高さ約5.5m、幅1.8m、厚さ1.5mほど。碑文に曰く「土津者 東照大権現之孫源中将之霊号也 霊神諱正之小字幸松 大徳院秀忠公之子 大猷院家光公之弟 大将軍家綱公之叔父……信州高遠城主従五位肥後守源姓保科氏正光為義父……。」 | |||
拝殿のずっと背後の高台に正之公墳墓。 寛文12年(1672)62歳で江戸に亡くなる。「我死せば磐椅神社の末社となりて永く奉仕せん」と自分の埋葬地を猪苗代湖が一望できる磐梯山麓のこの地に決めていたそうです。いまは木立が茂って猪苗代湖を望むことはできません。 | |||
表石。會津中将源君之墓と刻む。 | 円墳の頂に「土津神墳鎮石」 | ||
所々雪が残って、 | こんな看板も。 | ||
猪苗代に来たら野口英世博士にご挨拶せねばと三度目の訪問。全く新しくなってびっくり。 | |||
平成27年4月1日リニューアルしたばかりの野口英世記念館。入口で野口博士がお出迎え。 小学校の成績表、信徒人名簿、自筆研究ノートや顕微鏡等々、数多くの資料を展示。博士が画いた自画像、メリー夫人像、花や魚などもあったこと、交遊録に、エジソン、リンドバーグ、サラ・ベルナールの名が挙げられていたことなど、博士の人物像に新たな側面を見た気がした。 |
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野口英世生家。覆い屋に保護されて。 | ここは土間。台所でもある。鍋、蓑、臼もある。 | ||
英世の運命を決めた囲炉裏。この表現は?? | 神棚、高野豆腐、石臼、草鞋、お櫃入れ…… | ||
蚕棚。母シカが蚕を育て、糸を紡ぎ、機織りをして貴重な現金収入を得ていたという。 | 医師試験で上京する際に床柱に刻む19歳の決意 「志を得ざれば再び此地を踏まず」 |
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英世自筆の書。「忍耐」横文字は「正直は最良の方法である 忍耐は苦しいしかしその実は甘い」 | 母親が植えた桑の木。新芽はどこにも見当たらなかったが、まだ生きているのか? | ||
「福島県オリジナル品種『会津のかおり』」その味を確かめられず、空腹には何でもおいしかった。 | 猪苗代湖。記念館から400m程。日本第4位の面積。磐梯朝日国立公園に属し、日本百景の一つ。 | ||
磐梯山。日本百名山。今日は頭を見せず。 | 磐越西線に乗り会津若松へ。 | ||
英世の「忍耐」は人生の戦い。 猪苗代湖湖岸まで行きたかったが、いつもの駆け足旅行で断念。 |