東山温泉から鶴ヶ城 会津に遅い春を尋ねる4

東山温泉は駅から5キロあまり.。急峻な山に囲まれた湯川沿いの谷間に伸びる温泉地。かつては奥州三楽境の一つと言われた会津の奥座敷。今は宿の数も相当少なくなったのだろう。いやいや現在置屋が14軒、芸妓の24名もいて伝統を守っているそうだ。大小の宿は19軒。湯は50~60度の硫酸塩泉。
 
 険しい斜面は欅林。時折カモシカが駆け上るとか    廃業した宿などが並ぶ表通り。
 
宿泊した「原瀧」自家源泉掛け流し。、四つの貸し切り風呂、地元の旬生かした料理が自慢。   お手前料理。こごみ、うるい、たらの芽、山独活……。これにバイキング料理を加える。
 
「東山から日に日の便り、行かざなるまい……。 庄助さんのモデルは材木商とか會津塗りの塗り師とか
 
 まてどくらせど 来ぬひとを 宵待草の やるせなさ こよひは月も 出ぬさうな 夢 (竹久夢二)   湯の川の第一橋をわがこゆる
 秋の夕べのひがし山かな 晶子 (与謝野晶子) 
 
朝の散歩に手袋を忘れて後悔した寒さの中に、湯川河畔の海棠はまさに満開だ。   許嫁がいる芦名家重臣の娘、領主に見初められ、悩んでここに投身。助かったが出家した由。
 
猿湯。土方歳三が宇都宮戦での右足の銃創を癒やしたという 。近くの足湯には飯島八重もとか。   老舗旅館「向瀧」国登録有形文化財。
通りかかった従業員が挨拶してくれてびっくり。
曹洞宗祥雲山善龍寺。保科家の元祖正則の霊を守る保科家の菩提所として、保科正之とともに高遠から山形、会津と移転。戊辰戦争の際、山門を除いた堂宇すべてが灰燼に帰したが再建。
 
 焼失を免れた竜宮形式の山門。    本堂。
 
 二十一人之墓。 家老西郷邸では、辱めを受けるよりはと、頼母の妻八重子、その義母、妹、二歳の子供も含め家族9人に、西郷邸に身を寄せていた親戚12人が自決。 
 
西郷頼母と妻八重子の墓。 
保科八握髯翁墓 室飯沼千重子位 と刻む。
墓石の間の小さな墓石。大きさにも何か思いが。
  なよ竹の 風にまかする 身ながらも
たわまぬ節の ありとこそきけ 
                 八重子の辞世の歌
 
 なよ竹の碑。裏面に戊辰戦争で亡くなった会津藩の婦女子233名の名前が刻まれている由。    墓地の斜面のあちこちに、會津藩士の墓が点在していた。
 鶴ヶ城。葦名直盛、伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝、蒲生秀行、加藤嘉明、保科正之(3代以降松平)と有力大名が主となった東北の雄藩の一つの居城。戊辰戦争では約一ヶ月の激しい攻防戦に耐え、難攻不落の名城の実を示す。開城後政府の命令で取り壊され、昭和40年に再建。国指定史跡。
天守閣は3度登ったので割愛、(実は今では階段が苦手)これまで見なかったところをひと回りした。
 
北口から太鼓門を潜り満開を迎えた桜に飾られる鶴ヶ城本丸へ。 銀の鯱、牙は金、瞳にダイヤ。 
 
門の渡り櫓などへの昇降のための「武者走り」    二の丸を見下ろす。
 
本丸と二の丸をつなぐ廊下橋。 20m余の石垣。    月見櫓から天守閣を望む。
 
荒城の月詩碑。 仙台城や竹田城にもあるが    氏郷は七層の天守閣を建てたという。
麟閣。千利休は秀吉の怒りに触れ切腹。利休の茶道が途絶を惜しんだ会津の蒲生氏郷が利休の子少庵を會津に匿ったおり、氏郷のために少庵が作った庵を移築復元。氏郷の願いで千家は再興なる。 
 
寄付。客が席入りの前に準備をするところ。   中門。高さを低くし、潜りの意味を込めている。
 
腰掛待合。席入りを待つ。   蹲踞(つくばい)手を洗い口をすすぐ 
 
蒲鶴亭。床や地袋のついた 畳間   麟閣。茶席の本席。少庵が削った赤松の床柱。 
 
躙口。    庭には片栗が咲いていた。
 
 なに桜?   通路の先にお茶席で。 
 
本丸と帯郭を隔つ南走長屋に食料庫の干飯櫓。   表門(鉄門)帯郭から本丸奥御殿に通じる。
 
蒲生氏郷時代の野面積みの石垣。11mの石垣に25mの建物。内部は郷土博物館。   上杉謙信公廟所跡。春日山城に甕で葬られ、景勝が會津、米沢と転封するに伴い廟所も移動とは。
 
郵便創業当時の書状集箱を再現。日に2回取集する現役のポスト。郵トピア構想の指定都市記念。    鶴ヶ城天守閣再建50周年、天守閣内リニューアルオープンなどで多数の観光客や花見客を誘致。 
 多少花びらが地面に散ってはいたが、まさに満開の桜に飾られたお城は格別の趣。もっとゆっくりとは、いつものこと。城の案内所で、一日500円のレンタサイクルを借りて市街地の散策へ。 

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