東山温泉から鶴ヶ城 会津に遅い春を尋ねる4
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険しい斜面は欅林。時折カモシカが駆け上るとか | 廃業した宿などが並ぶ表通り。 | ||
宿泊した「原瀧」自家源泉掛け流し。、四つの貸し切り風呂、地元の旬生かした料理が自慢。 | お手前料理。こごみ、うるい、たらの芽、山独活……。これにバイキング料理を加える。 | ||
「東山から日に日の便り、行かざなるまい……。 庄助さんのモデルは材木商とか會津塗りの塗り師とか | |||
まてどくらせど 来ぬひとを 宵待草の やるせなさ こよひは月も 出ぬさうな 夢 (竹久夢二) | 湯の川の第一橋をわがこゆる 秋の夕べのひがし山かな 晶子 (与謝野晶子) |
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朝の散歩に手袋を忘れて後悔した寒さの中に、湯川河畔の海棠はまさに満開だ。 | 許嫁がいる芦名家重臣の娘、領主に見初められ、悩んでここに投身。助かったが出家した由。 | ||
猿湯。土方歳三が宇都宮戦での右足の銃創を癒やしたという 。近くの足湯には飯島八重もとか。 | 老舗旅館「向瀧」国登録有形文化財。 通りかかった従業員が挨拶してくれてびっくり。 |
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焼失を免れた竜宮形式の山門。 | 本堂。 | ||
二十一人之墓。 家老西郷邸では、辱めを受けるよりはと、頼母の妻八重子、その義母、妹、二歳の子供も含め家族9人に、西郷邸に身を寄せていた親戚12人が自決。 | |||
西郷頼母と妻八重子の墓。 保科八握髯翁墓 室飯沼千重子位 と刻む。 墓石の間の小さな墓石。大きさにも何か思いが。 |
なよ竹の 風にまかする 身ながらも たわまぬ節の ありとこそきけ 八重子の辞世の歌 |
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なよ竹の碑。裏面に戊辰戦争で亡くなった会津藩の婦女子233名の名前が刻まれている由。 | 墓地の斜面のあちこちに、會津藩士の墓が点在していた。 | ||
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北口から太鼓門を潜り満開を迎えた桜に飾られる鶴ヶ城本丸へ。 銀の鯱、牙は金、瞳にダイヤ。 | |||
門の渡り櫓などへの昇降のための「武者走り」 | 二の丸を見下ろす。 | ||
本丸と二の丸をつなぐ廊下橋。 20m余の石垣。 | 月見櫓から天守閣を望む。 | ||
荒城の月詩碑。 仙台城や竹田城にもあるが | 氏郷は七層の天守閣を建てたという。 | ||
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寄付。客が席入りの前に準備をするところ。 | 中門。高さを低くし、潜りの意味を込めている。 | ||
腰掛待合。席入りを待つ。 | 蹲踞(つくばい)手を洗い口をすすぐ | ||
蒲鶴亭。床や地袋のついた 畳間 | 麟閣。茶席の本席。少庵が削った赤松の床柱。 | ||
躙口。 | 庭には片栗が咲いていた。 | ||
なに桜? | 通路の先にお茶席で。 | ||
本丸と帯郭を隔つ南走長屋に食料庫の干飯櫓。 | 表門(鉄門)帯郭から本丸奥御殿に通じる。 | ||
蒲生氏郷時代の野面積みの石垣。11mの石垣に25mの建物。内部は郷土博物館。 | 上杉謙信公廟所跡。春日山城に甕で葬られ、景勝が會津、米沢と転封するに伴い廟所も移動とは。 | ||
郵便創業当時の書状集箱を再現。日に2回取集する現役のポスト。郵トピア構想の指定都市記念。 | 鶴ヶ城天守閣再建50周年、天守閣内リニューアルオープンなどで多数の観光客や花見客を誘致。 | ||
多少花びらが地面に散ってはいたが、まさに満開の桜に飾られたお城は格別の趣。もっとゆっくりとは、いつものこと。城の案内所で、一日500円のレンタサイクルを借りて市街地の散策へ。 |