おくのほそ道を辿る うらむがごとし象潟
芭蕉は6月16日(陽暦7月30日)、雨の中を象潟に到着、18日早朝に酒田に戻っている。象潟の印象は松島と共に強く残ったようで、「おくのほそ道」も文字数を費やして象潟を書き残している。 「江山水陸の風光数を尽くして、今象潟に方寸を責。酒田の湊より東北の方、山を越、磯を伝ひ、いさごをふみて其際十里、日影やゝかたぶく比、汐風真砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に莫作して「雨も又奇也」とせば、雨後の晴色又頼母敷と、 象潟は秋田県最南部に位置し、今は仁賀保町などと合併して「にかほ市」となっている。小さな漁村という感じだ。 羽越本線象潟駅を降り立つと、駅の直ぐ横に大きな芭蕉の碑が建っている。 |
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「芭蕉文学碑」 象潟 きさかたの雨や西施がねぶの花 夕方雨やみて処の 何がし舟にて江の中を 案内せらる ゆふ晴や桜に凉む波の華 腰長の汐といふ処は いと浅くて鶴おり立て あさるを 腰長や鶴脛ぬれて海凉し 武陵芭蕉翁桃青 |
十六日に泊まった「向屋跡」 十七日に泊まった「能登屋」跡 |
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「潟舟発着地跡」 かつて多くの島々があった頃、象潟川のここから潟舟で渡っていた。芭蕉の一行もここから島巡りにでかけたのだろう。 |
「舟つなぎ石」 潟舟発着の舟を繋ぎ止めた石。道しるべを兼ねているのか、道しるべにとも綱を結んだものか、それは知らない。 「左 ○ ○」 どこへいくのだろう。 |
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「象潟の日没」 宿の真横は日本海。大急ぎで夕食をすませて、防波堤によじ登った。三脚もなし、私の安カメラと腕で夕日がどう撮せるやら、とにかく撮ってみた。「日本の夕陽百選」 |
「象潟の日没」 ここは外海だが、今日は凪て、涼やかな風が僅かに頬をなでるばかり。水平線に沈む夕陽を見つめるのは山国育ちの私には堪らない。「日本の渚百選」 |
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「夕月」 部屋に戻ったら、夕月が鳥海山の上に昇ってきたのが窓越しに見えた。今日は月齢十四日。「……月は東に日は西に」かな? |
「鳥海山」 朝の散歩に出ると直ぐ眼についたのは標高2236m鳥海山。出羽の国のシンボルというべき山かな? |
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「蕉風莊」 昨夜の宿は玄関前に大きな |
「蕉風莊」 宿は岬と云うほどではないが、海に突き出した処に位置する。「海が静かですね」と女将に聞いたら、「冬は大荒れですよ」 |
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「物見山」 宿から象潟川を渡って少し行くと、ちょっとした岬になっていて、20m程の小山があった。ここからは男鹿半島や飛島もよく見えるそうだが、この日は見えず。 |
「唐戸石」 土地が隆起する前、僅かに水面に頭をのぞかせていたが、岩全体が地上に出たので、隆起の証拠とされている。市指定文化財。 |
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「海べの植物1」 昔小学校の教材に「海べの植物」という教材があった。潮風の影響や、砂地という環境にも育つ植物の特徴を学ぶのだったが |
「海べの植物2」 ハマヒルガオ? 散歩で宿の廻りから野草の花を摘んできた。宿の人に名を問うたが、どれも知らない。誰も知らない。知らなくても困らない。 |
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「海べの植物3」 ミヤコグサ? |
「海べの植物4」 アセトウナ? |
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「海べの植物5」 ハマボッス? |
「海べの植物6」 ハマエンドウ ? |
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芭蕉が象潟へ「方寸を責」と心がせき立てられたのは、当時の象潟は東西2km、南北3km程の入り江で、湾内には大小百余の島が点在し、「九十九島・八十八潟」の景勝地であり、松島と並ぶ名勝地だったからだ。歌枕として知られ、能因法師はここの能因島で三年間隠栖していたという。 芭蕉は、「象潟に舟をうかぶ。先能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこさす。(おくのほそ道) 世の中はかくてもへけり蚶方の あまのとまやをわが宿にして 能因法師 象潟の |
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「 羽越本線の線路を越えると、そこからが寺の境内のようだ。左手には松の公園が拡がっていて、右手は駐車場と売店。 昔ここは「八ツ島」と大きないう島だった由。 |
「芭蕉像」 「松島は笑ふ如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。」(おくのほそ道) 芭蕉は隆起後の今をどう見るのだろう。 |
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「芭蕉句碑」 「象潟の雨や西施かねふの花」 芭蕉像のそばに立っている。傍らには池があり、その畔にはネムノキが何本も。 |
「 「法海法窟」の扁額を掲げたどっしりとした山門で、仁王尊や建物の彫刻など、作者不明だそうだ。 |
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「皇宮山 開創は仁寿3(852)年。中尊寺、瑞巌寺、立石寺などを開創した慈覚大師による。 庭園を拝観するとそこには、 |
「芭蕉句碑」 中央の「芭蕉翁」の文字を挟んで 象潟の雨や 西施がねぶの花 |
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「親鸞聖人御腰石」 |
「北条時頼公のつつじ」 |
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「猿丸太夫姿見の井戸」 |
「西行法師歌桜の跡」 |
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「此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海、天をさゝえ、其陰うつりて江にあり。……江の縦横一里ばかり、俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。」(おくのほそ道) 芭蕉が尋ねた後115年後の文化元年(1804)に象潟地震が発生。多くの死者と倒壊家屋を出す。そして地盤が2mほども隆起したため、景勝地「象潟」は陸地と化し、いくつかの島が丘として点在するだけとなった。 |
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「舟つき場の跡と舟つなぎ石」 この先の一段と低くなっている田は隆起の前は海だった訳だ。 |
「水田」 地震後、島々を削って田地造成が行われたそうで、残っている陸地と田の高さはさして差がないようだ。 |
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「九十九島」 それぞれの(旧)島には松の木が聳えていて一目でわかるが、案内所で貰った地図には名前があってもどの島か判断できない。 |
「九十九島」 案内所で貸し自転車を借りて「絶景ポイント」まで行くと九十九島の全体が見渡せたそうだ。この島(丘)は「駒留島」かな? |
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「九十九島の碑」 いつ建てたのかなんと書いてあるのかわからない。市の有形文化財に指定されているのだから、貴重なものなんだろう。 |
道の駅「ねむの丘」遠望 6階の展望台から九十九島の全貌が見えるかと思ったらそう甘くはなかった。 物産館、レストラン、直売所、温泉などどなのある総合施設のようだ。 |
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「西施像」 ねむの丘の背後、海を背にして、この絶世の美女の像があった。芭蕉の句に詠み込まれたのが縁で、西施の故郷の浙江省 (画像にマウスを重ねると像が大きくなります) |
「西施像」 春秋時代の呉越の争いの際、越王勾践が呉王夫差に西施を献上。呉王はその色香に迷って政治を怠り、越に滅ぼされた。故郷に背を向け異国の鳥海山を見つめてるのは……。 |
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時間があれば、能因島など、もっと尋ね廻って見たい所があった。「あんない地図」には、「シャッターポイント」を数カ所示しているが、一カ所しか行けなかったのが残念だった。 芭蕉らは、ここから酒田に戻り、越後の出雲崎、直江津、市振と南下していく。出来たら私もこの先を尋ね歩きたいものだ。果たして、体が云うことを聞くかどうか? 叶わぬ夢かな? |
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旅の決算 合計41.360円 交通費 27.800 (JR: 12.000 タクシー代:14.850 バス代:950) 見学料 2.970 (船賃:1.970 致道博物館:700 雑 費 3.000 (昼食代) 万歩計 合計:37.039歩 (1日目:12.117 2日目:24.922) 自分で驚いた! |