慈覚大師の故郷を訪ねる

平安時代、円仁という偉いお坊さんがいた。延暦寺第3代天台座主となった人で、没後その功績をたたえて、慈覚大師の諡号を朝廷から与えられた。 15歳で比叡山延暦寺に入り最澄より教えを受ける。後に、遣唐使に加わり、唐で9年間修行を行った。この間の紀行を日記「入唐求法巡礼行記」全4巻に書き、マルコポーロの「東方見聞録」、玄弉三蔵の「西遊記」とともに、三大旅行記として高く評価されている。
円仁は延歴16年(794年)下野国都賀郡の豪族・壬生氏の子として生まれる。生まれた処は栃木県都賀郡の岩舟町の三毳山麓のこの地にだとも言われる。ここは近くの高平寺の別院の「誕生寺」で、小さな堂があった。 寺の前にはご覧の通りの立派な銅像や事績を記した石碑が建てられいたが、山腹の斜面で、ここに豪族の立派な屋敷があったとは思われない。この地だとすると、直ぐ下の水田あたりに館があったのかもしれない。
 境内の一角に柵で囲まれた泉があった。円仁の産湯に使われた水だという。泉からは下の池に流れ込み水が枯れることはなさそうだ。きっと清冽な水なんだろう。  円仁、いや慈覚大師さんは随分体格のいい方だったようです。東北一巡の旅に出て、日光山、毛越寺、坩満寺、円柱時などの開祖となり天台の教えを広めた。
幼い時は、直ぐ近くの高平寺で9歳まで養育、修行されたという。円仁が行水に使ったという池がいまなお伝えられている。
山裾に幾つもの建物を並べた、閑静な寺院だった。
円仁は9歳から岩舟町小野のこの大慈寺の住職広智について修行を積み、大同3年(808年)、15歳で比叡山に登り伝教大師最澄の弟子となった。後にこの寺の第4代の住職にもなった。ここは行基によって開山建立された由緒ある寺で、一時は修行僧が数千人もいたと伝えられる。
大慈寺の裏山の落ち葉の散り敷く山道を歩くと、観音堂があった。
未舗装の山道、落ち葉を踏みしめて歩くのは何年ぶりか。いいものだが、大した距離はないのに息が切れた。
更に登ると黒岩山の山頂に、大慈寺の奥の院として宝キョウ印塔が立っている。ここは円仁の座禅修行の場「座禅石」と呼ばれている。
おそるおそる岩場に登ってみた。
座禅石に登ると、眺望が広がり、遠くの集落まで見通すことができた、葛生か栃木市あたりだろか。
背後の諏訪岳も直ぐ後ろに見えた。
寺に降りると英文の看板。アメリカ駐日大使のライシャワー慈覚大師の研究で当地にも来訪。
大使の記念碑や記念樹もあった。
「日本七薬師」といわれる薬師堂で、行基菩薩作の薬師如来が祀られていたが火災で消失。この他本堂、大師堂があり、最澄が全国六カ所に建てた青銅製の相輪塔が聳えていた。 小野小町は老後、病にかかった時、大慈寺に参拝。そして薬師如来と歌のやりとりをしたという。 
 南無薬師如来病悉除の願い立てて
 身より仏の名こそおしけれ
  
 かへし 薬師如来
 むら雨は唯一通り降るものを
 おのが身のかさそこにぬぎおけ
年老いた小野小町は、大慈寺の裏山の断崖に登ると薬師如来の幻を見た。感動のあまり崖から飛び降りで亡くなった。
と言われているそうだ。
小町の墓は田んぼの間の畦道の先にあった。大きな銀杏の木のもとの自然石に「小町墓」と幽かに刻まれていた。
このあたりの地名は「小野里」
平安の絶世の美人の歌人小野小町は秋田県生まれ。その墓は当地のみならず、鳥取、秋田、京都、岡山、熊本、栃木、群馬など十指に余る。茨城にも「小野小町の里」があり、墓のみならず、ゆかりの池などなどがある。
円仁の生誕地は岩舟の他に、同じ都賀郡の壬生町だという。
岩舟から15kmの地だ。街の中心に壕と土塁だけの壬生城址があった.円仁と関係は????
円仁の出生地だという壬生寺。9歳で岩舟の大慈寺に修行に行くまでここで育ったという。「壬生氏」の出身というと、壬生という地名と符合するのだが、さて???」
太子堂。江戸時代、日光輪王寺門主の命で、壬生城主三浦壱岐守直次が建立した。慈覚大師の研究をして居たライシャワー米大使も来訪、櫻の記念植樹をした由。どの樹? 「慈覚大師御産湯井」どこから流れてくのだろうか??。
 太子堂         土屋文明
  慈覚大師
  御開帳扉過ぎし壬生寺
   灰冷えびえと大火鉢二つ

    歌人土屋文明も慈覚大師の研究をして居たそうだ。
「金売り吉次の墓。源義経を鞍馬山から陸中平泉の藤原秀衡の元に送り届けた砂金商で、ここ壬生で生涯を終えた。
松尾芭蕉に随行した曽良の日記に、
「壬生ヨリ楡木ヘ二リミフヨリ半道ハカリ行テ吉次カ塚右ノ方二十間ハカリ畠中ニ有」
今も畑の真ん中にひっそりと建っていた。土地の人に聞いてもわからない。あまり知らないようすだった。

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