海を眺めに房総へ
旅の雑誌を見ていて、素敵な宿を房総に見つけました。それに奈良時代の地方の中心地であった国府や国分寺の遺跡が気に掛かることもあって、千倉の宿、鋸山、上総の国分寺などを尋ねることにしました。初めに東京湾を見下ろす鋸山へ向かいました。内房線浜金谷駅に降りたち、昼食の時間なので店を探しましたが暖簾を潜りたい店がありません。案内図にあった店を訪ねると、十数人の行列待ち。行列に並んでいる時間の余裕がないので、そのままロープウェイの駅へ。売店で煎餅でも囓るかと思っていたら山頂駅に食堂がありました。ありふれた山菜蕎麦でしたが、東京湾を見下ろしながらの昼食は格別の味の気がしました。ここから東京湾まで平面距離で900mほど。富士山や丹沢山、三浦半島や大島まで見えるそうですが、この日見下ろした海には、船が二艘、白い航跡を残しながら行く姿だけでした。

鋸山は標高329m。江戸時代から石材の採石が行わたところだそうですが、聖武天皇勅願の日本寺があり、境内は十万余坪とか、山全部が境内なのでしょうか。堂塔や像などが山腹の各所に散在しています。何処へ行くにも、階段か急な石ころ並ぶ坂道を辿らなければなりません。それでも、中には、幼稚園児程の子供連れの若夫婦や、ハイヒールのお嬢さん、杖を頼りのお年寄りの姿もありました。信仰心か興味が深いのでしょう。私なりにも行ってみたい処が幾つもありましたが、とても老骨には過酷すぎると思って、少しだけ「参詣」。山腹を辿りながら路傍の雑草の中に草花を見かけました。もう時季外れでしょうが、未だ咲いている草花は足の疲れを忘れさせてくれます。この山の地質や動植物は貴重な存在で「天然の大博物館」として注目されている由。
下山して浜金谷から千倉まで。宿まで迎えの車で10分程。今宵のお宿は千倉温泉「夢みさき」。眼の前の80m先は千倉海岸。この付近にはホテルや民宿などが何軒もあります。砂浜の広がるところは海水浴場となっており、夏のシーズンにはさぞかし海水浴客が押し寄せるのでしょう。大浴場が二つありますが、広い部屋は各種の備品などの配置の巧みさには感心させられました。余程研究しているのでしょう。部屋に展望風呂があり、ここで気軽に入浴できました。いつもは烏の行水ですが、この日は疲れた足をモミほぐすつもりで20分以上入浴したまま。お陰できっと足が「つる」だろうと思っていましたが、この夜はぐっすり安眠できました。太平洋を眺めながら入浴できるかなと思っていましたが、外部の視線を遮るため目隠しで駄目。浴槽から出ると、眼の前に太平洋が広がります。左方には多分小湊あたりが。右の方に見える明かりは、三宅島? そんなことは無いとは思うのですが、さて何処でしょうか。太平洋に広がる星空や日の出も楽しみにしてきましたが、生憎の曇り空で、願いは叶いませんでした。
                               夕食は次々と並べられる多くの魚料理などの各種の料理は、小食の私にはとても食べきれません。少しずつ味見をするだけです。「和食創作コース」の一式の料理の他にバイキング式に並べられた料理の列もあります。とても手は出されません。夕食の時、早々と席を立ったと見るや、残りのデザートを皿にのせて、「お部屋でお召し上がりください」と持たせる始末。朝食はバイキング式。長く並べられた料理はどれも食欲を誘われますが、腹も身のうち、眼が食べたくても我慢、我慢。この宿の素晴らしさは、宿の職員の客への応対振りです。誰もが実に気持ちよい応対をしてくれます。こんな気持ちのよい宿は初めてのような気がしました。これまで各地の宿を利用してきましたが、文句なしの第一番の宿。自信を持って推奨します。

翌日は五井に寄りました。ここは奈良時代から平安時代にかけての地方の中心地。国府、総社、国分寺、国分尼寺が置かれたところです。駆け足で回ってみました。国府跡は不明とのこと、国分尼寺は当時の建物が復元されていました。中門、回廊などの朱塗りの柱、瓦葺き、白壁の建物の前に立つと、一足飛びに奈良平安の時代に飛ぶようです。傍らには資料館があり、発掘された瓦などの展示の他、当時の概要が分かる展示がしてありました。ここの国司を務めた菅原孝標の娘(名前がないのでしょうが)が京へ上る時の旅日記に始まるのが「更級日記」。更科公園や菅原孝標の娘の像などがありました。

いつもながら身の程知らずの欲深い旅だったと反省しきり。     アルバム

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