義仲と芭蕉の眠る義仲寺       
       
近江に芭蕉ゆかりの地を尋ねる 5 

「義仲寺は、源平合戦のころ、この地で討ち死にされた木曾義仲公の菩提を弔うために、義仲公の愛妾巴御前が、公の墓のそばに結んだ草庵をはじめとする。俳聖松尾芭蕉は、しばしば当寺を訪れ、巴御前ゆかりの名称によって無名庵を営み、滞留長く、その間誹諧名士の往来まあたひんぱんであった。翁は大阪で客死されたが、遺言により、遺骸を義仲公の傍に葬る。」
義経の没後、「見目麗しい女僧が、この公の御墓所のほとりに草庵を結び、日々の供養ねんごろであった。里人がいぶかって問うと、「われは名も無き女性」と答えるのみである。この尼こそ、義仲公の側室巴御前の後身であった。尼の没後、この庵は『無名庵』ととなえられ、あるいは巴寺といい……」  (国指定史跡義仲寺案内)
 
 義仲寺山門。この前の通りは、旧東海道。かつてはこの辺りは粟津ヶ原といい琵琶湖に面した景勝の地だった。   「巴地蔵堂」山門右手の提灯のかかる一角。巴御前を追慕する石彫地蔵尊を祀る。
 
 「しぐれても道はくもらず月の影」 紫金
この灯籠はキリシタン灯籠だと言う人もあるが。
   「山吹供養塚」義仲の側室山吹御前の塚。巴御前と共に信濃から京へと付き添ってきた召使。
 
 「初雪や日枝より南さり気なき 蝶夢幻阿佛」
蝶夢法師は義仲寺を中興する。
   「粟津文庫」蝶夢法師の創設。蕉門関係の貴重な資料を上梓、収集して収蔵する。
 
 「無名庵」芭蕉が数度にわたってこの庵に滞在する。    「行春をあふミの人とおしみける」   芭蕉桃青
 
 「木曽殿と脊中合せの寒さかな」   又玄
又玄(ゆうげん)は伊勢の御師・俳人。芭蕉を訪ねて無名庵に泊まったときの句。
  「古池や蛙飛びこむ水の音    翁」 
 木曽殿は信濃より、ともゑ・山吹とて、二人の便女を具せられたり。山吹はいたはりあて都にとゞまりぬ。中にもともゑはいろしろく髪ながく、容顔まことにすぐれたり。……鬼にも神にもあはふどいふ一人當千の兵也。……
主従五騎にぞなりぬる。五騎が内までともゑはうたれざりけり。木曽殿「おのれはとう/\、おんななれば、いづちへもゆけ。我は打死せんと思ふなり。……其後物具ぬぎすて、東国の方へ落ちぞゆく。(平家物語 巻九木曽最期)
 
 「巴塚」信濃国の豪族・中原兼遠の娘で、源義仲の愛妾。樋口兼光・今井兼平の妹。   源平盛衰記によると幕府にとらえられ再婚するなどして、木曽で九十歳の生涯を閉じたとか。諸説紛々。
 源義仲は乳母父である信濃国の豪族・中原兼遠の庇護下に木曽に育つ。樋口兼光・今井兼平、巴とは乳兄弟。
平氏打倒の令旨に応じて旗揚げ、平家を京より追い払って征夷大将軍となるも、寿永3年1月20日、頼朝の命を受けた従兄弟の範頼、義経軍に攻められて粟津で討ち死。享年31歳。

「今井四郎、木曽殿、只主従二騎になての給ひけるは、「日来なにともおぼえぬ鎧が、けふはおもうなたるぞや」。……兼平一人候とも、余の武者千騎とおぼしめせ。矢七八候へば、しばらくふせき矢仕らん。あれに見え候、粟津の松原と申す。あの松の中で御自害候へ。……木曽殿は只一騎、粟津の松原へとかけ給ふが、正月廿一日、入あひばかりの事なるに、うす氷ははたりけり、ふか田ありともしらずして、馬をざとうち入たれば、馬のかしらも見えざりけり、あおれども/\……」(平家物語)馬は動かず、そこへ追いかけてきた敵に討たれた。
 
  「義仲公墓」(木曽塚)
義仲の忌日(義仲忌)は毎年一月の第三日曜日。
  朝日堂(本堂)本尊は聖観世音菩薩。義仲、義高父子の木像、兼平、芭蕉、丈艸ら31柱の位牌を安置する。
 「芭蕉翁は元禄7年(1694)10月12日午後4時ごろ、大阪の旅舎で亡くなられた。享年51歳。遺言に従って、遺骸を義仲寺に葬るため、その夜、去来、其角ら門人10人、遺骸を守り、川舟に乗せて淀川を上り伏見に至り、13日午後義仲寺に入る。14日葬儀、深夜ここに埋葬した。」(寺の案内)
 
  「芭蕉翁」墓。義仲の墓の背中ではなく右隣に並ぶ。   「朝日将軍木曽源公遺跡之碑」文字は読めない。
 
 「旅に病で夢は枯野をかけ廻る  芭蕉翁」
「病中吟」と題した芭蕉最後の句、元禄7年10月8日
  境内は細長く、そのあちこちに20余句碑、墓、供養塔、神社などが並んでいる。
 
  「翁堂」蝶夢法師が明和6年(1769)に再興。後類焼して安政5年に再建。    「翁堂」正面に芭蕉、右に去来、左に丈艸、左側面に蝶夢の像、壁の周りには多くの俳人の肖像が。
 
 「芭蕉像」翁堂正面中央に。頭上に「正風宗師」の額。    天井には伊藤若冲筆四季花卉の図が描かれている。
 
 「芭蕉 椿の杖」  
史料館には義仲や芭蕉関係の資料が展示されていた。
   蕉門十哲の一人、杉山杉風書「亡師芭蕉翁之像」
 「大津繪の筆のはじめは何佛」の芭蕉の句を添えて。
 寛政7年(1795)10月12日、九州、四国、京大阪などを行脚していた小林一茶は、義仲寺で催された芭蕉忌の時雨会の誹諧興業に加わり、次の句を奉納した。     
  義仲寺へ急ぎ候初しぐれ  一茶   

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