堅田に芭蕉の足跡を尋ねる     
          近江に芭蕉ゆかりの地を尋ねる 6

義仲寺から膳所駅に向かい、東海道本線、今は「琵琶湖線」と愛称で呼ばれているそうだが、大津を通り越して山科まで行き、そこから湖西線に乗り換え、大津京、唐崎、比叡山坂本と降りて歩いてみたい駅に眼をつぶり、堅田に着く。雁の季節には少し早すぎたようだ。

堅田は、瀬田や石山と並んで近江八景に「堅田落雁」として取り上げられた処。古くから京に近く湖上交通の要地で、一休和尚、蓮如上人をはじめ、芭蕉、一茶、広重、北斎なども足を運んでいる景勝地。
  鴉めが推参したる堅田哉 一茶
  すずみ舟よする堅田の浦風に月もゆらるる波の上かな 蓮月

 ……かねてきく仲の穐の望の日、月浮御堂にさしむかふを鏡山といふとかや。今宵しも猶そのあたり遠からじと、彼堂上の欄干によつて、三上、水茎の丘南北に別れその間にしてみね引はへ、小山嶺をまじゆ。……やがて月雲外にはなれ出て、金風銀波千体佛のひかりに映ズ。……
   鎖明て月さし入よ浮御堂   はせを
   安々と出ていさよふ月の雲  同      (芭蕉 堅田十六夜之辨)
 
 臨済宗大徳寺派 海門山満月寺 山門    観音堂。聖観音座像、薬師如来像・十一面観音像安置
 
 浮御堂は一条天皇の長徳年間、比叡山横川恵心院に住した源信(恵心)僧都が、びわ湖を山上より眺め湖中に一宇を建立して自ら一千体の阿弥陀仏を刻んで「千仏閣」「千体仏堂」と称し湖上通船の安全と衆生済度を発願したに始まる」(寺の資料)
 
 浮御堂正面    千体阿弥陀像
 
 「比良三上雪さしわたせ鷺の橋 はせを」    「鎖(じょう)あけて月さし入よ浮み堂 はせを」
 
 近江八景の「堅田落雁」の雁の姿はない。    「堅田落雁」   安藤広重
 
 湖中碑 「湖もこの辺にして鳥渡る 虚子」  読める?   「五月雨の雨垂ばかり浮御堂」  ホホトギス同人 青畝
 
 何を捕るのか、湖上に小舟が何艘か浮かんでいた。   「病雁も残らで春の渚かな 蘭更」という句碑かも知れぬ
浮御堂にほど近い浄土真宗本願寺派夕陽山本福寺は、南北朝時代の創建とされ、第三代住職法住の時代の寛正6年(1465)に、浄土真宗の中興の祖といわれる蓮如が、比叡山衆徒による大谷本願寺の破却に遭い、やむなく堅田に逃げて身を寄せて布教をおこない、再興をはかったことから「本願寺旧跡」と言われる。
 十一世明式は俳号を千那といい、芭蕉の高弟であった。芭蕉は前後三回当寺を訪ね”病雁の夜寒に落ちて旅寝かな”の句を残している。
 
 本福寺山門。「本願寺旧跡」 入口の直ぐ右は千那の
「しぐれきや並びかねたるいさざ舟」の句碑が覗く。
   枝を伸ばす老松越しの本福寺本堂。「親鸞蓮如連座像」「十字名号」等蓮如ゆかりの品が数多く残されている由。
 蓮如堂。蓮如上人像を安置する。     「病雁の夜寒に落て旅寝哉 芭蕉」   (真筆)
 
 「芭蕉翁肖像碑」   「からさきの松は花よりおほろにて はせお」
 
 「からさきの松は…」の芭蕉の句碑を囲んで門人達の句碑もいくつも並ぶ。    「山茶花の落花に魂の埋もれなん」  大谷句佛
句佛は東本願寺第二十三代法主、子規に私淑する。
 
 「水底を見てきた貌の小鴨かな 丈艸」    本福寺
 内藤丈艸は蕉門十哲の一人。
   祥瑞寺。一休禅師が22歳から34歳まで修行した寺。
「朝茶飲む僧静かなり菊の花」と芭蕉がここで詠む。
本福寺を訪問したとき丁度外出する住職に会い、芭蕉の句碑のありかを伺うことはできたが、さらに引き留めて話を聞くこともできず、本福寺には病雁の短冊を埋めた三翁碑もあるそうだが、ついにわからなかった。

芭蕉の生まれ故郷・忍者の里 伊賀       INDEX

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