秋の吉備路を辿る~吉備路の寺社

「吉備」とは岡山から広島に掛けての古代の国名。大化の改新の際、備前、備中、備後と三分された。その備中の古くから開けた歴史ゆかしいところを少し辿った。岡山から吉備線の備中高松行で備中一宮まで乗る。一宮の駅で降りると、眼に付いたのはこんなところに置かれたホームの石棺の蓋。7世紀初頭の横穴式石室古墳出土とある。古代の吉備の国への第一歩はここから始まる。
崇神天皇十年九月……以大彦命遣北陸。武淳川別道遣東海。吉備津彦遣西道。…」北陸、東海、山陽、丹波へ「もし教を受けざる者あらば乃ち兵を挙げて伐て」と命じ四道へ将軍を派遣。(日本書紀) 
吉備津彦命はこの地で悪行を繰り返していた温羅という鬼を討ったという伝承が、桃太郎の鬼退治となったとか。温羅は百済の王子で、製鉄技術をもたらして吉備を繁栄させた渡来人とも。
 最初に訪ねたのは備前国一宮の吉備津彦神社。主神は第7代孝霊天皇第3皇子の大吉備津彦命。山陽道を平定、統治してなんと281歳で薨去したそうだ。 
 
 さざれ石。 (凝灰角礫岩?)   安政の大灯籠。高さ11m、笠石8畳。東洋一とか。
 
 曰くありげな大石は何でしょうね?説明は無し。    拝殿に向かう。
 
拝殿。   本殿は改修中。 
 
三間社流造。拝殿、祭文殿、渡殿、本殿と並ぶ。    遠山に日の当りたる枯野哉 高浜虚子句碑 
 吉備津神社に向かう途中に、はなぐり塚に立ち寄った。鼻ぐりとは牛の鼻に通す鼻輪のこと。 
 
家畜の霊を供養。宗教法人福田海本部が営む。    がっちり保護された伝左甚五郎作の龍。
 
中堂。本尊の馬頭観音の銅像を安置。    鼻ぐり塚。積み上げた数はおよそ600万個。 
吉備津彦神社から1km程で、吉備津彦信仰の総本社で、備中国一宮吉備津神社に至る。大吉備津彦大神が主祭神。吉備津彦の墓のある吉備中山の麓の屋敷跡に社殿が建てたにはじまりと伝える。
 
 参道入口 。   随神門。
 
拝殿(左)と本殿を横から(右)。現在の本殿・拝殿は今から約600年前の室町時代に再建。 比翼入母屋造の本殿は全国で唯一の様式で、吉備津造りともいうのだそうだ。高松城攻めの際秀吉も参拝。 
 
本殿から鳴釜殿などを地形なりにつなぐ398mの回廊。 見事なもんだ。回廊がつなぐ御釜殿は温羅の首を埋めたところ。討ち取られても首は唸り続けてやまず御釜殿の下に埋めたが、唸り続ける。夢枕に温羅の霊が現れて「釜殿の御饌を炊がめよ」と告げた事から、御釜神事が始まったという話。
 
今も行われてる 鳴釜神事。釜の音で吉凶を占う。    矢置石。吉備津彦が温羅退治の際矢を置いた。
 
随神門。南北二つの随神門を持つ。   犬養毅(木堂)首相。五.一五事件で殺害。備中生
造山古墳。古代吉備王国の首長の墓といわれ、応神、仁徳、覆中に次ぐ日本で4番目の規模を持つ。全長350m高さ29mの大前方後円墳。5世紀前半築造。鏡、鈴、鉄器などを出土。5つの陪塚をもつ。  
 
 造山古墳の遠景。墳丘に登れるそうだが…。   駐車場に建つ大きな埴輪像。 
備中国分寺は聖武天皇の発願で741年、全国の国毎に国分尼寺とともに建立。この国分寺は南北朝時代に焼失したと伝えられ、現在の建物は江戸時代中期以降に再建。すぐ近くに国分尼寺の跡もある。
 
吉備路のシンボル。備中国分寺五重塔。広がる田の隅にコスモスがまだ咲いていた。   真言宗御堂派日照山国分寺山門。くぐると正面に勅使門や客殿。
 
本堂。 本尊は薬師如来。   太子堂。弘法大師空海を祀る。
 
 五重塔。国重文指定。沢山の彩色画が彩る由。   観光客は多いが山門をくぐる人影はない。 
 
寺の隣地の旧国分寺中門跡地。柱の跡が点在。     広がる赤米の田。その先に五重塔が聳える。
 駆け足の旅で見逃したものも多いのはいつものこと。 桃太郎像、温羅神社など、桃太郎伝説にゆかりの地があちこちにあるそうだが、とてもそこまでの時間は取れなかった。

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